《消えた男の日記》 ヤナーチェク/パリ国立オペラ来日公演1 [オペラ実演レポ]
サー・ウィラード・ホワイト目当てで高額チケットをゲトしたのですが(それでも3階B席)、先日の椿姫に続いてあやうく行けなくなるところでした。半休をとるつもりでいたのですが、毎日が“火サス”な我が職場。
当然、着物どころではありませんで、上司を騙くらかして、お化粧もそこそこに会社を飛び出し、渋谷のオーチャードホールに滑り込み。携帯電話も忘れたので、座席からの写真はナシです。
私の行った7/29(火)は驚くほど空席が目立ちました。3階席の真ん中なんてガラガラ。
トリスタンのほうが(日曜日もあったとはいえ)そこそこ席が埋まっていたのだとしたら、この閑古鳥状態は演目のマイナーさが主たる原因と言えるでしょう。なにしろ、ヤナーチェクとバルトークです。
青ひげのほうは、それでも一応メインですし、まだとっつきやすいですかね。私もチケットを買った当初は青ひげに興味津々でして、ヤナーチェクのほうは「まぁ、オモシロそうだし、いいか」という程度でした。当然ながら予習なんてしていません。
ところが、実際の公演を体験し終わった今となっては、この《消えた男の日記》のほうが、強く印象に残っているのです。たった30分強の演目ながら、背筋がすっと冷たくなるような衝撃と胸がしめつけられるほどの感動を覚えました。
まずはこちらの感想をまとめておこうと思います。-------------------------------------
《消えた男の日記》は、元々は「テノール、コントラルト、女声三部合唱とピアノのための連作歌曲集」であったものを、パリ国立オペラが今回の公演にあわせてオペラ化したもの。オーケストレーションは指揮者のグスタフ・クーン。
民謡調の暗めの和声。そして、郷愁と不気味さのまじったテノールの語りから始まる旋律は、物悲しく、たいへん美しいです。
舞台は簡素。というか、何も無い。
中央より少し左にズレた部分に、マンホール大の丸い穴がぽっかりと口を開けており、醜い男がひとり、頭だけを出して歌っています。テノールのミヒャエル・ケーニッヒ。彼の外見の“醜さ”が、この作品のテーマをより身につまされるものにしていることに気づいたのは、演奏がもう少し先に進んでからでした。
穴から顔を出している男は、おそらく、東欧の暗い森の近くで暮らしている、純朴な農民の青年でしょう。彼はある日、森で美しいジプシーの女と出会い、その魅力にとりつかれてしまうのです。そしてついに、その女ゼフカと情を通じ、激しい後悔と罪の意識に恐れおののきます。
けれども、自責の念とは裏腹に、ゼフカへの想いは募るばかり。しだいに彼は「苺摘み」と偽ってゼフカに会いに森へ通うようになり、ついに家族を捨て、ジプシーの恋人との新しい生活に踏み出すことを決心します。
消えた男――。
予備知識も何も仕入れずに行ったので、はじめケーニッヒが穴から頭だけを出している意味が全くわかりませんでした。けれども、曲が進むにつれて、この「穴」が、彼をがんじがらめにしている「村」での生活であることがわかります。
呻くように煩悶の旋律を歌いながら、両腕を穴から出して不器用にもがくケーニッヒの姿は、見ているだけで胸がしめつけられるようです。
ミニスカート(?)の、いかにも娼婦然としたゼフカが、何もない暗い舞台を横切り、からかうように穴を跨いだりしてきます。ゼフカはハンナ・エステル・ミニュティロ。メゾソプラノ。ちょっと低音が精彩を欠いていた気もしますが、容姿はたいへんgood !! 身持ちの悪そうな、しかし、どこか清らかな美しさを内に秘めた、男が色香に惑わされるのも無理はないといった感じ。
穴に閉じ込められた男と、穴の周辺をうろつく女。ヤナーチェクの物悲しい不協和音にぴったりな、たいへんシュールな演出です。
特に感嘆したのが、“セックス”の場面での裸のダンサー達(実際は肌色のタイツを身に着けているようですが)。不気味にうねる演奏に合わせてじわじわと男と穴の周囲を取り囲み、ねっとりと腰部をくねらせるという振り付けで、3階席から眺めていると、これがとっても醜怪なのです。
まるで肌色の蛆虫の群れ、そのもの。
「性」とは素晴らしい営みである反面、ある種の人、ある種の年代、ある種の視点から眺めた場合は吐き気がするほど醜悪なのもまた事実です。
この醜悪な演出を生み出した「美意識」に、臓腑をかき回される思いがしました。
このシーンの音楽も、呻くような弦(だったと思います)の響きがじわじわと床を這い回り、嫌ったらしさ全開。これが原曲のピアノでしたら、どんな印象になるのでしょう。
しかし、後半。しだいに男が「解放」への渇望を歌いあげるにつれ、楽曲はヤナーチェク本来の純粋な生命力を増していきます。
穴に入りっぱなしのケーニッヒですが、この頃になると顔だけの状態から半身を外界に晒し始めます。そしてクライマックスの音楽の盛り上がりとともに、ぽんっと外へ転がり出る。舞台の上には、彼の子どもを抱いたゼフカの姿――
この瞬間、心の中で(´;ω;`)ブワッ と涙があふれました。
ヤナーチェクのこんな部分、それが死という形であれ、先に暗雲の垂れ込めるつかの間の喜びであれ、長い抑圧の末の解放を表す音楽は、私の感動のツボど真ん中にあるようです。
この作曲家の作品をまだそんなに聴いたことはないのですが、ブリテンと同様、少なくともオペラの全作品制覇だけは目指していこうと思いました。
(手始めに、ゲッダニコライによる《消えた男の日記》をamazonで注文。感動というよりウケそうですがw)
パリ国立オペラ。まったく良い演目を引っさげて来日してくださったものです。たとえお客さんの入りは悪くとも。
この演出を企画したのは、スペインの演劇集団ラ・フラ・デルス・バウス。92年バルセロナ五輪のオープニングセレモニーも手がけたということです。
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男 : ミヒャエル・ケーニッヒ
女 : ハンナ・エステル・ミニュティロ
女性たちの声 : リー・ヘヨン
レティティア・シングルトン
コルネリア・オンチョイウ
指揮 : グスタフ・クーン
演出 : アレックス・オレ
カルロス・パドリッサ
演奏 : パリ国立オペラ管弦楽団
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ヤナーチェク関連記事リンク
◇トーマス・アレンの『利口な女狐の物語』
↑ヨシ、今回もアレンにこじつけたゾ!!(`・ω・´)
当然、着物どころではありませんで、上司を騙くらかして、お化粧もそこそこに会社を飛び出し、渋谷のオーチャードホールに滑り込み。携帯電話も忘れたので、座席からの写真はナシです。
私の行った7/29(火)は驚くほど空席が目立ちました。3階席の真ん中なんてガラガラ。
トリスタンのほうが(日曜日もあったとはいえ)そこそこ席が埋まっていたのだとしたら、この閑古鳥状態は演目のマイナーさが主たる原因と言えるでしょう。なにしろ、ヤナーチェクとバルトークです。
青ひげのほうは、それでも一応メインですし、まだとっつきやすいですかね。私もチケットを買った当初は青ひげに興味津々でして、ヤナーチェクのほうは「まぁ、オモシロそうだし、いいか」という程度でした。当然ながら予習なんてしていません。
ところが、実際の公演を体験し終わった今となっては、この《消えた男の日記》のほうが、強く印象に残っているのです。たった30分強の演目ながら、背筋がすっと冷たくなるような衝撃と胸がしめつけられるほどの感動を覚えました。
まずはこちらの感想をまとめておこうと思います。-------------------------------------
《消えた男の日記》は、元々は「テノール、コントラルト、女声三部合唱とピアノのための連作歌曲集」であったものを、パリ国立オペラが今回の公演にあわせてオペラ化したもの。オーケストレーションは指揮者のグスタフ・クーン。
民謡調の暗めの和声。そして、郷愁と不気味さのまじったテノールの語りから始まる旋律は、物悲しく、たいへん美しいです。
舞台は簡素。というか、何も無い。
中央より少し左にズレた部分に、マンホール大の丸い穴がぽっかりと口を開けており、醜い男がひとり、頭だけを出して歌っています。テノールのミヒャエル・ケーニッヒ。彼の外見の“醜さ”が、この作品のテーマをより身につまされるものにしていることに気づいたのは、演奏がもう少し先に進んでからでした。
穴から顔を出している男は、おそらく、東欧の暗い森の近くで暮らしている、純朴な農民の青年でしょう。彼はある日、森で美しいジプシーの女と出会い、その魅力にとりつかれてしまうのです。そしてついに、その女ゼフカと情を通じ、激しい後悔と罪の意識に恐れおののきます。
けれども、自責の念とは裏腹に、ゼフカへの想いは募るばかり。しだいに彼は「苺摘み」と偽ってゼフカに会いに森へ通うようになり、ついに家族を捨て、ジプシーの恋人との新しい生活に踏み出すことを決心します。
消えた男――。
予備知識も何も仕入れずに行ったので、はじめケーニッヒが穴から頭だけを出している意味が全くわかりませんでした。けれども、曲が進むにつれて、この「穴」が、彼をがんじがらめにしている「村」での生活であることがわかります。
呻くように煩悶の旋律を歌いながら、両腕を穴から出して不器用にもがくケーニッヒの姿は、見ているだけで胸がしめつけられるようです。
ミニスカート(?)の、いかにも娼婦然としたゼフカが、何もない暗い舞台を横切り、からかうように穴を跨いだりしてきます。ゼフカはハンナ・エステル・ミニュティロ。メゾソプラノ。ちょっと低音が精彩を欠いていた気もしますが、容姿はたいへんgood !! 身持ちの悪そうな、しかし、どこか清らかな美しさを内に秘めた、男が色香に惑わされるのも無理はないといった感じ。
穴に閉じ込められた男と、穴の周辺をうろつく女。ヤナーチェクの物悲しい不協和音にぴったりな、たいへんシュールな演出です。
特に感嘆したのが、“セックス”の場面での裸のダンサー達(実際は肌色のタイツを身に着けているようですが)。不気味にうねる演奏に合わせてじわじわと男と穴の周囲を取り囲み、ねっとりと腰部をくねらせるという振り付けで、3階席から眺めていると、これがとっても醜怪なのです。
まるで肌色の蛆虫の群れ、そのもの。
「性」とは素晴らしい営みである反面、ある種の人、ある種の年代、ある種の視点から眺めた場合は吐き気がするほど醜悪なのもまた事実です。
この醜悪な演出を生み出した「美意識」に、臓腑をかき回される思いがしました。
このシーンの音楽も、呻くような弦(だったと思います)の響きがじわじわと床を這い回り、嫌ったらしさ全開。これが原曲のピアノでしたら、どんな印象になるのでしょう。
しかし、後半。しだいに男が「解放」への渇望を歌いあげるにつれ、楽曲はヤナーチェク本来の純粋な生命力を増していきます。
穴に入りっぱなしのケーニッヒですが、この頃になると顔だけの状態から半身を外界に晒し始めます。そしてクライマックスの音楽の盛り上がりとともに、ぽんっと外へ転がり出る。舞台の上には、彼の子どもを抱いたゼフカの姿――
この瞬間、心の中で(´;ω;`)ブワッ と涙があふれました。
ヤナーチェクのこんな部分、それが死という形であれ、先に暗雲の垂れ込めるつかの間の喜びであれ、長い抑圧の末の解放を表す音楽は、私の感動のツボど真ん中にあるようです。
この作曲家の作品をまだそんなに聴いたことはないのですが、ブリテンと同様、少なくともオペラの全作品制覇だけは目指していこうと思いました。
(手始めに、ゲッダニコライによる《消えた男の日記》をamazonで注文。感動というよりウケそうですがw)
パリ国立オペラ。まったく良い演目を引っさげて来日してくださったものです。たとえお客さんの入りは悪くとも。
この演出を企画したのは、スペインの演劇集団ラ・フラ・デルス・バウス。92年バルセロナ五輪のオープニングセレモニーも手がけたということです。
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男 : ミヒャエル・ケーニッヒ
女 : ハンナ・エステル・ミニュティロ
女性たちの声 : リー・ヘヨン
レティティア・シングルトン
コルネリア・オンチョイウ
指揮 : グスタフ・クーン
演出 : アレックス・オレ
カルロス・パドリッサ
演奏 : パリ国立オペラ管弦楽団
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ヤナーチェク関連記事リンク
◇トーマス・アレンの『利口な女狐の物語』
↑ヨシ、今回もアレンにこじつけたゾ!!(`・ω・´)
2008-08-05 22:26
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