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エットレ・バスティアニーニの《外套》 -- その歌唱とストーリーについて [オペラ録音・映像鑑賞記]

aninitabarro2.jpg「伝説の名バリトンがこんなネタブログに…」とハラハラされている方もいらっしゃるかもしれませんが、最近またプッチーニの《外套》聴きなおしましたので、記念に感想を上げておきます。

 なにしろ私がエットレ・バスティアニーニを見直すに魅了されるきっかけとなった録音です。今後ウチでも彼のヴェルディを取り上げる(←遠くから「ヤメロ~!!」という声が聞こえるわけですが)前にきちんとけじめをつけておきたい。

 有名なので今更ここに書くまでもないのですが、1954年ハンブルクでの録音。指揮はマリオ・コリドーネ。バスティアニーニ以外のキャストはルイジ・アルヴァ(流しの歌手)以外ほとんど馴染みがありません。

 改めて聴いてみたところ、以前の記憶より「声が若い」と感じました。バスティアニーニの“当社比”ではなく、「50才という設定のミケーレにしては若い」という意味です。最初はとにかくバスティアニーニの迫力に圧倒されるばかりで、細かい部分に耳の神経が行き届いていなかったのかもしれません。

 まぁでも、それは些細なことであると思う。録音当時のバスティアニーニは32才で、若い妻に裏切られた初老の男の愛憎をリアルに理解することはなかっただろうけれども、おそらくこの人は非情に音楽的な勘に優れていて、ミケーレの旋律をどのように歌えばキャラクターの心理や作品のテーマを最も効果的に表現できるのか知っていたのではないかと思います。天才なんですね。

 かなり以前に「ストリップ歌唱」というとんでもなくお下品なネタ用語を作ってしまったことがありますが(ヴィッカーズのオテロ参照)、バスティアニーニは当然これには当てはまらない。対極にあると思います。

 この《外套》での彼の歌唱はヴェルディ(特にライブでの)の時とは違う冷静さ、計算している感があります。それがちっとも興ざめでない…というか、むしろ聴き手がこの作品に求めているカタルシスを的確に達成させているような気がします。カラヤンの生み出す音楽に通じるものがあると思う。
 まぁ、単に表現のしかたが私の好みだったから、というだけかもしれませんが。


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bastianini tabarro 3.jpg"Perche non m'ami piu?(どうしてもう愛してはくれないのだ?)" の歌唱はややロマンティックで、そこにミケーレの年令との違和感が生じるものの、全体的には抑えぎみに歌っています。

 目立った感情表現といえば"Ero tanto felice! (私たちは幸せだった!)"と一瞬泣き崩れる(?)ところと、"Perche chiudi il tuo cuore?(なぜ心を閉ざしてしまったのだ?)"くらい。
 声を荒げたりヘタな小細工を入れたりせずに実直に歌っているので、結果妻の若さに打ちのめされる灰色の髪の男の自嘲にうまくはまっていると思う。(YouTube

 バスティアニーニの声は低音域と高音域で少し声音が変化します。そこがまた魅力なわけですが、妻ジョルジェッタに愛を請う中~高音の響きはセピア色の悲哀感が漂っており、一方、"Nulla!... Silenzio!(何もない…静かだ!)"以降の低音は闇に包まれたそら恐ろしい響き。ミケーレという人間の二面性をこんなふうに歌い分けられるのがすごい。

 前半の抑制があるからこそ、妻の浮気相手を詮索して殺意を募らせていくアリアの凄みが増すわけです。
 出だしは静かな怒りのつぶやきであったものが次第に激しく吹き荒れてとぐろを巻き、ついには怪物と化し、咆哮をあげながら起き上がるかのような壮絶な歌唱。コリドーネの指揮と渾然一体となってドラマを盛り上げていく。(YouTube

 続く殺人のシーンも迫力がありますが、この録音でのバスティアニーニの真骨頂はアリアの部分に最も発揮されていると思います。
 バスティアニーニの殺人シーンはやはり抑制が効いています。激情にかられて…というより、“怪物”として堂々と復讐を遂行する。"La pace a nella morte!(死の中にこそ安らぎが!)"と言い放った瞬間、ミケーレは“人”ではなくなった、というところでしょうか。

 死体を包んだ外套を開いて"Vieni!(来い!)"と叫ぶところでも、もはや“人”を感じません。バスティアニーニの歌唱があまりにも壮絶すぎるからなのですが、これを聴きながら「ミケーレ怪物変身説」を妄想するのもまたアリかなと思います。(YouTube

aniniportrate.jpg ミケーレのような役は、多少声が衰えたとしても年配の歌手の手(喉?)にかかれば、また別のドラマが見えてくるものです。
 30才そこそこでこのような秀逸な録音を残したバスティアニーニは、しかし、僅か44才で(ミケーレの年令に追いつくずっと前に)亡くなってしまいました。

 右はバスティアニーニの有名な写真の一つで、頭髪に白いものが目立ちはじめているもの。少しはミケーレのイメージに近いか・・と思って載せておきます。
(…のつもりだったけど、ダメだっ! ド派手な水玉のシャツといい、成金っぽい指輪といい、ミケーレのイメージとはほど遠い! この人も「イタリア人」なんだねぇ…orz )

 ジョルジェッタはノラ・デ・ローザが歌っています。

 この人はなんというか…前半は古い蓄音機から流れてくるような典型的な歌唱で、「時代」というものを感じされられてちょっと欝になりましたが、後半になってミケーレと絡みはじめたあたりからはなかなか聴かせる歌唱になっています。バスティアニーニ効果とでもいいましょうか(←全ては兄ぃニの手柄になります)

 通して聴く時にはちょっとイライラするのですが、ストーリー展開を考えるならば、歌唱にこういう落差があってもいいかもしれないと思います。

 若い荷役夫のルイジと不倫関係に落ちて、夢のようなことを言っている間は、重みのない歌唱でも構わないのです。ジョルジェッタにとってルイジとの関係は、現実逃避にすぎないからです。
 彼女が目を背けたい「現実」とは、貨物船の船長で老いたミケーレとの希望のない生活です。夫婦仲はすっかり冷え切っているように見えます。

 しかし、後半からのミケーレとの二重唱で、過去には幸せな日々を過ごしていたこともあったとわかります。何が夫婦の仲を引き裂いたのか、詳しくは語られません。ただ、1年前には二人の間には赤ん坊がいて、今はいない、ということだけは確かです。

 妻の愛情を取り戻そうとしてミケーレは、「あの頃は、私の外套の中におまえたち二人を包み込んでいた」と思い出を語るのですが、ジョルジェッタは「聞きたくない!」と取り乱します。

 このあたりのデ・ローザの歌唱がなかなか良い。聴き慣れたせいもありますが、前半の表面的な軽々しさとはうって変わって、現実から目を背けようとする女の悲痛な声がよく出ていると思います。

「外套の中におまえたちを…」というミケーレの言葉から察するに、この夫婦は、子どもを失った悲しみに二人で直面し、その痛みを分かち合うことが一度もなかったのではないでしょうか。「外套」とは「人生」、もしくは「心」の象徴であるからです。

 かつて妻と子を自分の人生に受け入れていたミケーレは孤独の中に埋没し、ジョルジェッタは喪失感を紛らわせるため若い男との不倫に溺れる。ふと気付いた時には、決して戻ることができないほどに二人の心は離れてしまった。
 ミケーレは「戻ってくれ」と懇願しながらも、妻に拒まれると「あばずれめ!」と呟きます。そして妻と見知らぬ浮気相手(実はルイジ)への憎悪を募らせていく。

 けれども、(おそらく)初めてミケーレが悲しい心中を明かしたことで、ジョルジェッタの心も揺さぶられます。この晩、ジョルジェッタはいつものようにルイジと逢引するつもりでいたのですが、なぜかミケーレに擦り寄ってきます。そして「あなたの外套の中へ入らせて」と言う。
「言ってたわよね。誰でも外套を1枚持っていて、喜びや悲しみを包み込んでいるって」
 ジョルジェッタは戻りたいと思っていたのでしょうか。少なくとも、ミケーレに救いを求め始めていたのではないかと考えます。

 デ・ローザの声には力強さは無いのだけれども、むしろそれがジョルジェッタの雰囲気に合っているように思います。いかにも娘っ子らしい声なのですが、可憐さはなく、どこか不幸な響きがあります。愚かな過ちをおかしたけれども、決してミケーレが言う「あばずれ」ではない。聴き慣れたせいもあるでしょうが、情状酌量の余地はあります。

 だからこそ、ミケーレが外套を開いてルイジの死体を露にするラストが恐ろしい。人間はこれほどまでの憎しみを心に抱けるものかと。憎悪に満ちた外套の中に「来るがいい!」と叫ぶミケーレ。人の心の底知れぬ闇、地獄まで続くかのような深さ。

 ここでのバスティアニーニのとんでもない大声は、まさに、過ちをおかしながらみすみす許しを請う女を喰らおうとする地獄の怪物を思わせるのです。

 ちなみに、ピーター・グロソップも《外套》のミケーレを歌っています。裏が取れているのは、'76年4月のROH。
 エルネスト・ブランもミケーレ役をレパートリーとしていました。












 …と、「少しは真面目に聴いてますよ」とアピールをした上で、私もそろそろ外套を脱いで、ネタ師としての真の姿を……あっ、ちょ……何を……!!(←“守る会”のガードマンにつまみ出された)

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関連記事リンク:
バリトン愛好家の偏愛あるいは私は如何にして敬遠するのをやめてバスティアニーニを愛するようになったか

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コメント 4

斑猫

そろそろネタにしていただきたいような、読むのがちょっと怖いような・・わくわくのこの頃であります。
by 斑猫 (2012-03-06 14:25) 

しま

■斑猫さん
こんにちは! お越しいただきありがとうございます。

>そろそろネタにしていただきたい
そ、そんなふうに仰っていただけるとスイッチが…!!

もうね、どんなにカッコ良くてもね、ヴェルディなんぞを「モデル立ちで」歌ってしまった時点でアウトです(笑)
by しま (2012-03-06 16:40) 

斑猫

うぬ、「モデル立ち」とな?  えっと、「運力」ですかね。どの場面だろ。 書いて書いて~~~
と、変態っぽくなってきた私であります。
by 斑猫 (2012-03-06 23:58) 

しま

■斑猫さん
ネタの基本は「持ち上げてから落とす」!!
というわけでさんざん期待を持たせてしまっていますが、正直、この人をイジるのは怖いよぅ…って、既にコチョコチョやってますけど(笑)

敬遠しなくなってから気付いたんですが、兄ぃニもオモシロイ人ですよねぇ。だからヴェルディで輝くのかと。
by しま (2012-03-07 17:47) 

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