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もう少し、ルッフォのこと。-- キャリア初期~中期について [オペラの話題]

※7/4 ルッフォの自伝『La mia parabola』に基づき、情報の誤りを訂正、追記しました。

tittaruffo3.jpg 西南戦争勃発の年、明治10年生まれ。
 4代目古今亭志ん生、第22代横綱・太刀山峰右衛門らとタメのティッタ・ルッフォです。

 この人のことをもっとよく知りたいと思い、暇がある時にネットでいろいろ調べてまわっています。
 有名な人ですので、日本語のサイトでも名前はちょくちょくお見かけします。が、具体的なバイオグラフィーやエピソードについてとなると、情報がある程度まとまっているのはWikipediaくらいでしょうか。

 ありがたいことにルッフォはキャリアの後半は米国でも活躍していましたので、英語でも少しは情報を得られるのですが、やはり通りいっぺんのことしか出ていません。

 そんな中、1912年にフィラデルフィアのNY(*1)メトロポリタン歌劇場にデビューした時のルッフォの新聞評を見つけました(⇒こちら)。おそらくネットに出回っている「(英語の)ルッフォ評」のオリジナルはこれでしょう。

 おお~!! と感動すると同時に、ちょっと怖いなと思いました。
 このリチャード・オルドリッチという人一人の評価が、後の時代の人々のルッフォのイメージを決定づけているように感じたからです。少なくとも、ネット上ではそんな感じ。

 オルドリッチのルッフォ評は、(最近初めてルッフォを聴いたド素人の私が言うのもおこがましいですが)まぁ妥当だったんじゃないのかなと思うのですが、こうしてネット上で言葉の断片だけが切り貼りされて世界中に拡散していくうちに、ルッフォの芸術の貴重な記録が、本質を失った虚ろな「情報」にすりかわっていきやしないかと。そして私自身もその「情報化」の共犯者になっていやしないかと。

 ネットの恩恵をたっぷり受けているオペラ愛好家の私ですが、ネットでの情報収集と発信にふと疑問を抱いてしまいました。

 とはいえ、素人の情報発信だからこそ意義がある、という側面もあると思うのです。ルッフォの時代は専門家による発信と素人の「口コミ」は全く別次元のものでしたが、ネットでは両者が同次元に存在します。このごった煮は危険ですが、一方で「たった一人の人間の視点で、ある物事の評価が決定される」という現象に待ったをかけることができる。

 私がある記録を集めて再発信するという行為は、記録そのものの質を落とすことになるのかもしれませんが、代わりにド素人ゆえの純粋で生々しい「感想」というものを新たに生み出しているわけです。
 どんなにくだらなかろうが、この「感想」というものが私という人間の生きた証であるのでして(笑)、形骸化したルッフォ評に一瞬でも命を吹き込むことができるのだとすれば…。

 それこそおこがましいかもしれませんが、情報の横流しに罪悪感を抱くのであれば、その償いとしてこれまで以上に誠実に感想を(そしてネタを)書いていこうと決心した次第。

 ところで。
 ルッフォの生誕の地、ピサのヴェルディ劇場には、ティッタ・ルッフォと名付けられた小ホールがあるそうです。バロック音楽のコンサートをするような所らしいのですが、今年(2012年)の1月13日、その小ホールでルッフォについての本 "Pisanità di Titta Ruffo. Il più grande baritono di tutti i tempi" の出版披露会が行われたというニュース記事を目にしました。⇒こちら

 Google翻訳と「心の目」で読み解いた限りでは、「ピサ生まれの最も偉大な、かつ不朽のバリトン歌手の生い立ちから成功までを、当時の新聞記事や批評などの記録を用いて再認識しましょう」という、なんともスバラシイ内容のようです。

 それそれ! そういうことを知りたいんですよ。
 点眼一滴=1時間イタリア語が読める、みたいな目薬、ありませんかね?


*    *    *


 さんざん言い訳をして気も晴れましたので、前回の記事ではすっ飛ばした、ルッフォのキャリア初期~中期について、以下に簡単にまとめておきます。参照ページは⇒こちら

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tittaruffo4s.jpg いきなりトリビア的なネタですが、“ルッフォ” という名前は死んだ飼い犬にちなんでつけられたのだそうです。19世紀とはいえ、どういうネーミング・センスをしてるんだか。しかし本人は、この名前が幸運を呼んでくれたと、とても気に入っていると自伝で語っています。

 本名をひっくり返して芸名にしているのも不思議な感じです。
 自伝によると、オーディションで本名を名乗ったところ、「野暮ったい。もっと芸術的な名前に変えろ」と言われ、逆さまにしたのだそうです。それが“芸術的”かどうかはさておき、確かに、そのほうが音の収まりが良い気はしますね。

 父親は鉄細工師だったそうです。ルッフォも父と同じ道を歩むつもりで父の工房の見習いとなりましたが、やがて歌の才能が見抜かれ、パトロンがつくまでになりました。(*2)

 ローマの聖チェチーリア音楽院でVenceslao Persichiniに師事しましたが、ほんの短い間だったようです。なんでもジュゼッペ・デ・ルーカのほうが気に入られていたようで、ルッフォは追い払われたような形だったらしい。ペルシキーニの教授法に疑問を感じていたこともあり、7ヶ月で音楽院を中退。(*3)
 その後、何人かの教師に弟子入りはしたものの、誰のもとでも長くは続かなかったようです。そうやって転々としている間に独自のメソッドを編み出していったものと思われます。
 
 この自己流歌唱が彼の声を早く衰えさせたと言われていますし、本人もそう考えていたようです。
 が、自己流だからこそ新しかったとも言えるでしょう。誰に教えられたわけでもない、その自己流歌唱は「ルッフォという人間そのもの」。聴き手に大きな衝撃を与えたのは当然だと思います。決して大声だけが要因ではないはず。

 なによりも、100年後の私が、現代の歌手に対するのと同じテンションでもってルッフォに夢中になっているのが良い証拠です。
 師匠運が無かった修行時代はさぞ苦労したのでしょうし、歌手生命を縮めたのも残念ではありますが、結局、それがルッフォをルッフォたらしめる代償ではなかったかと思うのです。気高いものを手にするためには、何かを差し出さなければならないのですから。

 ルッフォの初舞台は1898年、ローマ・コスタンツィ劇場。《ローエングリン》の伝令です。
 21才20才の時(誕生日前なので)ですので、当時としては遅い・・らしい(あまりピンときません)。

 デビューこそ小さな役でしたが、その後は急速に頭角をあらわして、リゴレット(早っ!)や《ラ・ジョコンダ》のバルナバなど、主要な役を務めるようになりました。その頃もその後にも、特定の歌劇場や歌劇団に所属したことはなかったそうです。(*4)

 20世紀に入ると世界的な活躍が本格化します。主な劇場デビューは以下の通り。

 1901年(23~24才) チリ、サンティアゴ市立劇場。《アフリカの女》ネリュスコ役。
 1902年(24~25才) ブエノスアイレス、オペラ劇場。《アイーダ》アモナスロ。
 1903年(25~26才) ロンドン(コヴェント・ガーデン)で《リゴレット》題名役。《ランメルモールのルチア》。
 1904年(26~27才) ミラノ・スカラにて《リゴレット》題名役。
 1907年(29~30才) リスボン、サン・カルロ劇場で《ハムレット》題名役。(初)
 1911年(33~34才) パリ・オペラ座。サンパウロで《ハムレット》。
 1912年(34~35才)、フィラデルフィア・メトロポリタン歌劇場。アメリカ初上陸で、この時の演目も《ハムレット》。同月、NYメトロポリタン歌劇場でも《ハムレット》。
 1922年(44~45才)、NYメトロポリタン歌劇場にて、《セビリヤの理髪師》のフィガロで再デビュー。

 当時としては珍しくもなかったのかもしれませんが、ルッフォは20代からリゴレットを歌っています。(*5)
 ハムレットが彼の看板ではありますけれど、リゴレットでもけっこう有名だったようですね。

「リゴレットは声が衰えはじめる年齢になってから歌うべし!」というのが私の持論なんで、ルッフォは大きく外れるんですが……アンタは元々オヤジ声だからおっけー♪ (*´∨`) ←ファンになると持論なんて簡単に捨て去ります

 1903年にROHで《リゴレット》を歌ったのリハーサルをしていた時の有名な逸話として、ジルダ役のネリー・メルバ(1861- 1931)がルッフォとの共演を嫌がったというのがあります。結局メルバはその影響力を利用してルッフォを役から降ろし、別の(リゴレットに適齢な)歌手と交代させたのでした

 「彼(ルッフォ)と歌うのは嫌よ。私のお父さん役にしちゃァ若すぎるじゃないの(I’m not singing with him. He is too young to be my father.)」

 ルッフォは26才、メルバは42才でした。

 後年メルバと顔を合わせた時、ルッフォはこう言い返してやったそうです。

「僕の娘にしてはずいぶん老けているな(She’s too old to be my daughter.)」
「僕と共演するには、あなたは年上すぎるでしょう(Tell Melba that she is too old to sing with me.)」(*6)

 1908年のリゴレットを貼っておきます。ラストシーンでのジルダとの二重唱です。

 ルッフォは31才ですか。
 この時の相手役グラツィエラ・パレートは年下のようですけど。

 この若さにしてこの立派なオヤジ声。リゴレット歌いはこうでなくちゃいかんですね♪

 そして、パレートがいかにも前時代的な、蚊の飛んでいるような歌唱を繰り広げているのに対し、ルッフォの声量と表現力のなんとまぁ現代的なこと。

 この一部分だけを聴いても、ルッフォがいかに卓越した歌い手であったのかがわかります。
 他の歌手が彼との共演を敬遠しがちだったというのも致し方ないことでしょう。



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関連記事リンク
■ライオンの歌声(La Voce del Leone)-- ティタ・ルッフォのハムレット 「乾杯の歌」
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(*1)ルッフォの北米デビューは1912年11月なのですが、ややこしいことに同月内に“二つのメト”でハムレットを歌っています。11/13(水)にフィラデルフィア、11/19(火)にNYです。リンクの新聞評には“last Tuesday”とありますので、NYが正しい。

(*2)…と書くと、誰かの援助があって音楽を学んだかのように聞こえますが、実際にパトロンがついたのはデビュー前の数ヶ月程度で、それまでは鉄細工師として稼いだ雀の涙の収入からレッスン料を捻出しています。断続的に複数の教師につきながら長くは続かなかったのは経済的な理由が大きいようです。

(*3)聖チェチーリアでのルッフォの成績はさんざんで、「もう来なくていいよ」と言われたのも事実ですが、ペルシキーニ先生のクラスは「悪口雑言をぶつけあう大喧嘩の末にやめた」のだそう。決して先生だけに非があったわけではないかと・・(笑)

(*4)《ローエングリン》でのデビューの後、いくつかの歌劇団とイタリア各地や南米を巡業していますが、どれも有期契約で、正式に「所属した」ということではなさそうです。

(*5)リゴレットのロール・デビューは1889年7月、リヴォルノのヴィットリオ・アルフィエーリ劇場。なんと21才で、プロ・デビューからわずか半年後のことでした。

(*6)ロンドンでの出来事の5年後、サン・カルロでハムレットを歌うルッフォを見たネリー・メルバは、自分がオフィーリアを歌うから《ハムレット》で共演しないかと持ちかけます。その時のルッフォの返事がこれ。
 ネット上で伝わるうちにオフィーリア→ジルダへと変わっていったわけですが、因縁の2人の共演は11年後の1914年、フィラデルフィアの《リゴレット》で実現しているので、その時の話であると誤解されたものと思われます。
 それにしても、ジルダとオフィーリアでは、ルッフォの言葉の辛辣さの度合いがまるで違って聞こえるわけですが・・


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名古屋のおやじ

パレートは1889年5月15日生れですね。手元にイギリスのPearlというレーベルから出ていた彼女のアリア集があるのですが、その解説に出ていました。

なお、ルッフォとの『リゴレット』の二重唱はフランスのEMIから出ていた8枚組のLes Introuvables du Chant Verdienという、SP時代のヴェルディのアリアや重唱の録音のアンソロジーに含まれていますね(実はこれも手元にある)。
by 名古屋のおやじ (2012-05-23 20:58) 

斑猫

まあまあそうおっしゃらず、これからもご贔屓にww

バスティアニーニは、キャリアのごく初期にルッフォとかぶっていますが、「君の声は私に似ている」とルッフォに言われた、という伝説があります。裏が取れないので、あくまでも伝説ですが。
本人は、レコードで聞いてみたがよくわからなかった、と述べております。

ルッフォはピサ生まれなので、同じトスカナ人ですね。
E canta il grillo というルッフォに捧げられたという、トスカナっぽい歌曲があります。バスティアニーニは来日時のリサイタルで、アンコールも含め、全日程でこの曲を歌いました。なんらかのomaggioが、ルッフォに対してあったのかな、と思います。

Youtubeにバスティアニーニのこの63年の録音(晩年ですから割り引いて聞かねばなりませんが)と御大の録音(録音技術はね、ご存じのとおり)がありますから、聴き比べると興味深いです。

と、per sempre Bastianini の斑猫がお伝えいたしました。
by 斑猫 (2012-05-24 06:14) 

しま

■名古屋のおやじさん
ありがとうございます。ルッフォより12才下ですね。
てことは19才か!
可憐なジルダですねぇ。

録音情報もありがとうございます。
そのうち手元に置きたいものです。
by しま (2012-05-24 10:54) 

しま

■斑猫さん
バスティアニーニもちゃんとポケモンの1人に入っていますとも!
私は気が多いんです。ルッフォじゃ全曲聴けませんしねぇ。
でもこんなに騒いでいながらも、l'éternité Blanc (使い方合ってるかな?)なんだろうな〜。

>私に似ている
>よくわからなかった
私にもよくわからんです(笑)ルッフォよ、血迷ったのか?
でも自分の声は他人が聴くのとは違ってきこえますからねぇ。
ルッフォの引退は1931年だそうなのですが、本当だったらおもしろいですね!

まぁ歌唱で役に魂を吹き込んだという部分で、兄ぃニとルッフォは共通してるんでしょうねぇ。

歌曲情報ありがとうございます。
帰ったらさっそく聴いてみますね。
by しま (2012-05-24 11:25) 

斑猫

あ、どうでもよいことですが、バスティアニーニの音源は65年でした。マニアとしては、お恥ずかしい間違い。

バッティスティーニも、名前の紛らわしさはともかくとして、兄ぃニが語られる時に引き合いに出される先人ですが、なんというか、この辺の方がたとは、歌唱のmodernityという点において、決定的に違うような気が、私はするのですけれど。
また、昨今の方々とは、様式観・声質という点で大いに違っているし・・
とまぁ、また惚気てしまった(?)
by 斑猫 (2012-05-24 13:25) 

Sardanapalus

>ルッフォの声量と表現力のなんとまぁ現代的なこと
うわーい、ここ数日はまっているルッフォリゴレットのフィナーレが聴けて嬉しいです♪本当に声で演技していますね。まだ若いのに老け声ステキ~☆ハムレットより先にリゴレットの方であちこちの歌劇場に呼ばれているのがちょっと面白いですが、音源をきくだけでも納得です。

それにしても、この音源は折角ルッフォの歌唱で盛り上がるのに最後の叫びの後さらっと終わってしまって残念です!やはり最後はジャジャジャジャ~ンと終わって欲しい…。タイムスリップしてぜひ生声を聴きたくなりますねぇ。
by Sardanapalus (2012-05-24 20:35) 

Basilio

ふ、ふ、ふ、見つけてしまったよ、ルッフォの“窓辺にいでよ”…なんじゃあの最後の高音はwwと思って聴いてたんですが、

http://www.youtube.com/watch?v=GK4gKgK8HJQ&feature=related

伊国の栄光マッテア・バッティスティーニもやってるんで、ひょっとしてこの時代の流行…?笑

しかし、ルッフォの歌声、確かに時代先取りって感じですね^^
by Basilio (2012-05-25 00:26) 

しま

■斑猫さん
私はあんまり細かくは聞きわけができていませんけど、バスティアニーニはいろんな意味で別格って気がしますね。

昨今のリゴレットでは、やっぱりヌッチかな。
現代の歌い手では最高峰なんだろうなって思います。
最近ちょっと感動した映像があり・・。

まぁそれぞれの時代にすごい歌手がいろいろいるわけですが、今の私の心の琴線に触れてくるのは古臭い歌唱のほうみたいです。
(とはいえ、バッティスティーニみたいな歌唱にはちょっとまだ慣れていません;;;)
by しま (2012-05-25 01:11) 

しま

■サルダナさん
いや~ホント、できれば50年遅く生まれてきていただいて、'5~60年代くらいの演奏と録音技術でレコーディングしていただきたかった(笑)
でもあの時代だからこそ良かったんでしょうね。今の時代に聴いたら「普通」だと思うんで、やっぱり私たちのほうがタイムスリップすべきなんだろうな~。

リゴレットは見事にハマっていると思うんで、となると、「なんでハムレット?」という疑問が再び・・(笑) 結果的にウケたからいいんですけど、満を持してのロールデビューだったのか、「たまたま」だったのか、あれこれ想像してしまいます♪

今の時代だと、ハムレットと聞いて連想するのは、ハンプソンかキーンリーサイドか、ってところでしょうから(録音あるしね)。
by しま (2012-05-25 01:26) 

しま

■Basilioさん
笑えるでしょーあれは(笑) 自慢の音源よ♪

でもねー。近々ネタにしようと思ってたんだよねー。
今日一日かけて最強のプロットを組み立てたんだよねー(シゴト中にw)
戒厳令をしいておくべきだったなー。

まぁバッティスティーニ先生もやってんなら、いっか(笑)

ん。
おかげで新たなネタが生まれそうです。
転んでもタダでは起きぬネタ根性
by しま (2012-05-25 01:52) 

Basilio

あだダダダダ…それは大変な失礼をば(>_<)

次なるネタ、楽しみにしております笑。
by Basilio (2012-05-25 12:06) 

しま

■Basilioさん
いえいえ♪ 
どうせならウチのライオン・キングをバッティスティーニ大先生にけしかけてやりたいと思ったり。

行けっ! ルッフォ!
「キャンッ!」(←そりゃ犬だ)
by しま (2012-05-26 00:48) 

名古屋のおやじ

どこかにあるはずだ、と探していたものの一部が出てきました。

The Titta Ruffo Edition というイギリスのPearl が出していたものです。1から3まであって、それぞれCDが2枚ずつ。今回見つけたのは3巻目です。解説はJohn Steane、SPからの復刻は、長年EMIで同様の仕事をしていたKeith Hardwickが担当。珍しいものとしては、ルビンシュテインの『デーモン』のアリアをロシア語で歌っているものでしょうかね。

たぶん、1、2巻も家のどこかにあるはずなんだけど。
by 名古屋のおやじ (2012-05-26 14:37) 

しま

■名古屋のおやじさん
これでございますねっ!? 。・゚・(ノ∀`)・゚・。
http://www.amazon.co.jp/Titta-Ruffo-Vol-3/dp/B000000WQR
鼻血吹きそうな内容です。

>1から3まであって、それぞれCDが2枚ずつ
や~ん、死んでまう~(*´Д`) ←壊れた

つか、ラクメまであるんだ…イタリア語…(*゚Д゚)

ありがとうございます!
ローエングリン制覇のためのニンジンにします(笑)

それにしても、マニアの皆さんって、CD何枚お持ちなんでしょうか。
どうやって管理収納なさっているのでしょうか。
前々から気になっているのです~。
by しま (2012-05-27 01:13) 

名古屋のおやじ

しまさん

ルッフォのCDは、その通りです(あの後、Ⅱも発見しました)。

CDやDVD等、ディスク系のものは合わせて数千枚はあると思いますし、本もたぶん数千冊あるはずで、それぞれ現在も増殖中ゆえ、やっぱり収納は悩みの種です。本の方は、その大半が自宅とは別のところに置いてあります。

管理は体内内臓の「勘」ピューター。昔は「検索機能」も、なかなかのもので(?)、どこに何があるかほぼ記憶できていたのですが、加齢とともに、精度に難ありという状態。
by 名古屋のおやじ (2012-05-27 07:22) 

しま

■名古屋のおやじさん

>(あの後、Ⅱも発見しました)
ようございました!
で、素朴な疑問としては、なぜⅠとⅡとⅢが離れてしまってあるのか、ということですが(笑)

数千枚!!
クラシック専門のレンタル屋を開けそうですね♪

私は(マニアではなく)ただの愛好家なので、ポケモンたちのアイテムをそろえるだけで息切れがしています。たぶんコンプは無理。
「ドン・カルロ」と「うんちか」、「トロヴァトーレ」は、うっかり同じ音源のものを買ってしまったことがあるし。
by しま (2012-05-28 00:21) 

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