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ルッフォの自伝 “La mia parabola” ハイライト/前編 -- 生い立ち、デビューからハムレットまで [オペラの話題]

ruffo_titta.jpg ティッタ・ルッフォの自伝、“La mia parabola”(『我が人生の放物線/我が盛衰』)を熟読中です。

 ピサの貧しい鉄細工職人の次男として生まれ、ローマで育ち、ある日天啓のように歌に目覚めて舞台人を志し、苦労の末にデビューを果たして着々とスターダムへ上りつめてゆく。

 野心を抱いた一人の青年の姿が、19世紀から20世紀初頭のヨーロッパを背景にして、実に活き活きと描かれています。

 ルッフォはこの自伝を、引退後のある年のたった一夏で書き上げたのだそうです(出版は1937年)。

 満足に学校教育を受けることができなかったということですが、かなりの読書家で、独学で芸術への造詣を深めていったようです。とにかくその文才に脱帽。彼の自伝が、単なる著名人の自筆の記録としてではなく、「作品」として高い評価を得ているというのも頷けます。

 読んでいてとにかく驚かされるのは、特に幼少~少年時代の思い出話の部分に顕著に表れているのですが、文章を読むだけでまるで映画か何かのように、19世紀後半のイタリアの街の情景が目に浮かんでくることです。出会った人ひとりひとりの顔つき、服装も実に細かく覚えています。天才型のルッフォは、もしかしたら、映像記憶能力を持っていたのかもしれません。

 また、自身の声音を白、黒、ブルー、緑…と、色に例えて説明することもしばしばあることから、共感覚(色聴)保有者でもあったのではないかと想像します。

 そして、その巧みな筆致や並外れた感性に勝るとも劣らずに魅力的なのは、ルッフォ自身のキャラクター。

 正直、こんなにツッコミ甲斐のあるお方とは思いませんでした(笑)

 歌唱と写真から受ける印象では真面目くさった、ややネクラな人といった感じで、まぁ自伝を読んでみても基本的にそういう性格のようなのですが、そんな内面性とは裏腹に“いかにも”なイタリア人気質が行間から炸裂しており、読みながら何度となく吹いております。

 オンナとカネの話が大好きで、ステップアップするたびにギャラがいくら増えたかまで、細かく記憶しているところもご愛嬌です。

ruffomyparabola.jpg 原文はもちろんイタリア語ですが、“My Parabola”という翻訳版が出ており、バスカヴィル社の“Great Voices” シリーズの第1巻として収められています。なんとCD付き。知らずに購入したのですが、まだ入手していないルッフォの録音が多数収録されており、ラッキーでした!

 先週から読み始め、ようやくルッフォの「放物線」が頂点に向かって加速度的に上り始めたあたり――1907年のハムレット大当たり――まで進みました。 ここでいったんインターバルを入れて、メモ代わりにツイートしていた自伝のハイライトをまとめておきます。

 Twitterは文字数が限られているのと、私の悪ノリで、誇張した訳も少なくないことをあらかじめお断りしておきます。
 また、彼の人生、キャリアアップのターニングポイントに注目して抜粋しています。芸術論についてお知りになりたい方は、ネット検索をするとけっこうルッフォの語録が散らばっていますので、そちらがおススメ。

 尚、“百検索は一読にしかず” ということで、過去にまとめたルッフォの記事の誤りが多数発見されました。訂正と、必要に応じて加筆しておきましたので、ご興味のある方はどうぞ。↓↓↓↓

  ・ライオンの歌声(La Voce del Leone)-- ティッタ・ルッフォのハムレット 「乾杯の歌」
  ・もう少し、ルッフォのこと。-- キャリア初期~中期について

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 苦労を重ねた修行時代、無我夢中で突っ走った駆け出しの頃。御年60才のルッフォおじさんがロマンティックに回想する、キャリア前半のハイライト。

 偉大なライオン・キングのお姿はどこへやら。
 一言でまとめるなら、半野良わんこがチャンピオン犬になるまでのお話です。

子犬少年時代】
1877年6月9日、ピサに生まれる。父親は鍛冶屋(鉄細工師)。スペイン系の母は家政婦。
名前の由来は、彼が生まれる直前に死んでしまった、父の可愛がっていたわんこのルッフォ(*1)真っ黒な毛並みの美しい猟犬だった(そしてルッフォも黒髪である)。

ピサでの思い出。
サクランボをくすねてマンマにしこたま引っ叩かれる。
お祭りにおニューのセーラー服を着せてもらったのに、泥遊びで汚して大泣き。
どちらの事件も、大好きだった女の子ジェンマの気を引こうとしたのが発端。

一家でローマへ(*2)
学校に上がるか上がらないかくらいの年に、家計を助けたい一心で、自ら鉄細工師の親方に頼み込んで雇ってもらう(そしてまたマンマに叱られるw)。 「これが私の人生の成功の第一歩でした」。 ハングリー精神旺盛。

兄のエットレは「私とは違って」ブロンドでハンサムな少年。学校にも通っていた。羨ましいとは思わなかったが、兄が連れてくる身ぎれいな友人達と顔を合わせたくはなかった。兄の教科書を眺めて、自分がろくに教育を受けていないことが心配でならなかった。

15才まで父の工場で働く。幸せではなかったらしい。
ある日父と衝突して衝動的に家出。 明け方に身支度をしていると、目を覚ました兄が尋ねた。
「こんな時間に仕事か?」
「家を出る。兄さんには二度と会えないよ」
兄は冗談と思ったらしく、「Bon voyage!」と呟いてまた寝入ってしまった。

わんこ、野良犬になる。
アルバーノの鉄職人の工房へ転がり込む。お金をためて、横暴な父からマンマを助け出すのが夢。
腕のいい職人として認められるが、同僚から妬まれて辞める。 その後、親切な農場主の夫婦の世話になり、「ウチの子になりなさい」と言われ、殆どその気になりかける。

やがて父親に居所を知られ、渋々ローマに帰る。
家にはピアノが…。
聖チェチーリア音楽院に通う兄が音楽について熱く語るが、ルッフォは全く興味を示さず
音楽についての知識といったら、「ヴェルディはトロヴァトーレの作曲家」ということだけ。




【歌への情熱】
兄に誘われてコスタンツィ劇場へ。《カヴァレリア・ルスティカーナ》を観てボロ泣きする。
帰宅後、兄にせがんで冒頭のセレナーデをフルートで演奏してもらう。知らず知らずのうちに歌い始める。人生初の遠吠え。やがて近所の人々が起き出して窓の外に集まり、「ブラーヴォ!」と拍手喝采。(*3)
歌手になりたいと強く願う。

そしてこの直後に傷害事件を起こすルッフォ。人生がヴェリズモオペラ。

1895年、人妻アルミダとの初恋。18才の誕生日に一目惚れしてナンパ。口説き文句からどんなふうにキスしたかまで情熱的に描写する、イタリア男のルッフォおじさん。結局マンマに仲を引き裂かれて終わり。マザコンなところもイタリア男。彼女の家のドアを叩いて泣く。イタオペのストーリーを地で行く。

声変わりで声が嗄れ、歌への情熱を抑制していた頃。オレステ・ベネデッティというバリトン歌手の卵が家に下宿していた。ベネデッティの歌うヴェルディのアリアを繰り返し聴いて、工房でこっそり真似て歌った。自分はテノールと思っていたが、低い音域のほうが声が出るように思えた。

ある日、ベネデッティの歌を聞いて覚えた《ベリザーリオ》をフルヴォイスで歌う。自分であれこれ試してみて、これだ!と思う発声方法をみつける。家に飛んで帰り、 「お母さん!ぼく、バリトンだよ!さっきやってみたんだ。今は疲れたから歌えない。ベネデッティの前だと恥ずかしいけど、あとで聴かせてあげる」

ルッフォの歌うのを聴いたベネデッティは驚愕のあまり笑い出した。 「おったまげたね!どこからそんな声が出るんだ? あした君を先生のところに連れて行くよ」



【修行時代】
聖チェチーリアでペルシキーニのクラスに編入。7名の生徒のうち師匠はあからさまにジュゼッペ・デ・ルーカを贔屓。デ・ルーカは既にオペラ出演も決まっており、しばしばレッスンに遅刻。何もしないで待っていることも多く、居眠りをしていた…と、行間にイラっとした気持ちを匂わせる。

ペルシキーニはルッフォをバスと判定、ザッカリアのアリアを教えようとする。それが気に入らなかったのと、授業料が払えないので7ヶ月で辞める。その後別の師匠につくも、ピアノがまったく上達せず。「もう来なくていいよ」と追い返される。

ペルシキーニと大喧嘩。
「先生の授業は時間の無駄です。僕の声を全く理解していない」その他、罵詈雑言と人格批判。
激怒した先生のお言葉→大馬鹿もの、ゴロツキ、落伍者、音楽荒らし、などなど。
「私も馬鹿だが先生もだった」と回想。授業料を踏み倒したのが唯一の反省点。

師匠を求めてミラノへ。(*4)カシーニに師事。
なけなしの金を使い果たし病にかかる。日の差さない部屋ですすり泣く日々。
意を決してカフェで食い逃げ。これで「英雄行為」に目覚め、夕食にありつくためだけに隣人の娘に愛想をふりまく。わんこ、オオカミに変身

新人を探していたコロンビアレコードに売込み、初録音。「新人はノーギャラ」と言われるが、「母への手紙を出す切手代も無い」と泣きつき20リラを貰う。
そのエピソードにたったの半ページ。隣人の娘とのデートと情熱的なキスと別れの描写に3ページ半も費やすルッフォおじさん。もはや恋愛小説。

レコードの評判が良く、パトロンが付く。
初オーディションでは「素晴らしい表現力!」と絶賛されるが、舞台未経験との理由で不採用。 2回目。興行主は既にジアーニと交渉中だったが、ルッフォの声を聴くがいなや考えを変える。

「契約の前に、まずは劇場できみの声を聴きたい。きみの声はこんな狭い部屋では大き過ぎてね。《ローエングリン》の伝令を覚えてきたまえ。数日後にもう一度聴こう」
春にローマのコスタンツィ劇場でそれをかけるので、伝令役を探していたという。
こうして故郷ローマでデビューすることとなったルッフォ。


【デビュー】
1898年4月。《ローエングリン》の契約の直前、偶然に別のオーディションの機会を得る。「これぞ探し求めていたバリトン!」と大絶賛される。両方のエージェントに「既にあちらに決めた」とホラを吹いて、一晩のうちに二つの契約をゲット。デビュー前から自分を高く売り込む抜け目のなさを発揮。

《ローエングリン》のリハーサル。ファーストフレーズの入りを間違え、指揮者にドン叱られて意気消沈。部屋に閉じこもりクヨクヨする。
カヴァレリア・ルスティカーナなんて聴くんじゃなかった。歌手なんて志すんじゃなかった。
初日を迎え、今生の別れかのようにマンマを抱きしめてから家を出るルッフォ。

本番。メイクの髭が気になる。オケが前奏曲を始めてしまった!演出家に剣を手渡され、ステージの真ん中へ。カーテンが上がり、フットライトに目が眩む。魔物の口のようなプロンプターボックス。そして、最初のフレーズ…!「聞け!ブラバントの貴族たちよ」

第一声が湧き出た!しなやかな、揺るぎのない、力に満ちた声が…!まるで生まれ変わったかのような感覚! そして“呼び出し”のシーン。「ブラバントのエルザの釈明の為、闘わんと欲する者は前へ出でよ!」 喝采が沸き起こった。

母と二人の妹は最前列で観ていた。歌の修行に反対していた父は立ち見席で、友人達と一緒に。 家族とは家で顔を合わせた。母とは暫くの間かたく抱き合っていた。
「可哀想なマンマ! 私の歌手としての姿を見届けることができたのはこの時だけだったのです」


【駆け出しの頃】
1898年、20〜21才。《ローエングリン》に続いて同劇場で《トロヴァトーレ》(ルーナ)、《ランメルモールのルチア》(エンリーコ)。リヴォルノでは上記2つに加えて《リゴレット》、初の主役。生まれ故郷ピサでもルーナとエンリーコを歌う。街に出かけると人だかりができるほどに名前が知られる。

1899年、カタンザーロにて《ボエーム》。マルチェッロ初役。2幕ムゼッタのワルツ、マルチェッロが“Gioventu mia”と入るところが「ナイアガラの滝のような迫力」と話題。そこだけ繰り返して演奏される。切符は毎回売切れ。「この役は疲れないから声休めとして良かった」

1899年、カターニア。世話になった漁師一家を《仮面舞踏会》に招待。ルッフォのアリアに興奮した漁師のおばちゃん、オケピの前で大はしゃぎ。飛んできた花束をおばちゃんに投げてあげる。心温まるエピソードとして地元の新聞に取り上げられる。

わんこのモテ自慢。
ルッフォに惚れた興行主の娘が、若いメイドをスパイとして送り込む。舞台写真を盗まれたあげく、メイドに押し倒されそうになる。ルッフォおじさんの言葉を信じるのであれば、過ちをおかさなかったのは「好みのタイプではなかった」から。

わんこ、飼い主の手に噛み付く。(*5)
風邪をひいてもステージに引っ張り出そうとする興行主から100リラをむしりとる。アンコールに応じるのに更に100リラを要求。劇場は暴動寸前。

やがて経営の思わしくなくなった歌劇団を離れる。ライヴァルの劇場から法外なギャラでオファーがあるも、元の興行主に恩義を感じて断る。 彼の紹介でサレルノでの《ファウスト》に出演。ヴァランタン初役。

サレルノにて。劇場のサクラはカモッラ(ナポリの犯罪組織)系のチンピラ達。彼らに気に入られて付きまとわれ、あわや警察沙汰になるところで逃げ出す。「自分も歌手になる前はリヴォルノの組織にいた」とホラを吹くから悪いのだが。

1900年。フェラーラで《エルナーニ》。契約をアテにしてツケであつらえたおニューのコートを汽車に置き忘れ、泣きながら探す(見つからず)。更に興行主に夜逃げされて絶望…。しかし得意技の遠吠え「窓辺の大声歌唱」によって別のスポンサーが現れ無事に上演。ドン・カルロ初役。


【ステップアップ】
1900年、サンティアゴで《アフリカの女》。ネリュスコ初役。 10才年上の憧れのソプラノ、“ブルネットの君”と密かに慕っていたベネデッタからロン毛を「だらしがない」と叱られ、床屋に駆け込む。舞台が成功すると「貴女のお陰で真の男になれました」とラブレターを。ミューズとの長きにわたる交友の始まり。

急な演目変更で、またもや500リラのボーナスを要求。

1901年、ピサで《オテロ》(初イァーゴは前年、サンティアゴにて1回)。シェイクスピアの翻訳を読んで一ヶ月間どっぷりと研究。(*6)「声に恵まれただけでなく天性の役者」と評される。イァーゴは自分の声と歌唱にぴったりハマったとのこと。

1901年、パレルモで《トスカ》エウジェニオ・ジラルドーニの代役でスカルピア(初役)。作曲者自らがこの役に指名した歌手の代役。しかもオーケストラとのリハ無しで歌わねばならず、出立直前のジラルドーニを直撃して2幕の演技を付きっきりで指導してもらう。



【因縁の共演者、ネリー・メルバ】
1903年。ロンドンで《ランメルモールのルチア》《セビリヤの理髪師》フィガロ初役。 続いて得意の《リゴレット》のオファーがあり。リハーサルでフル・ヴォイスで歌い、オケや共演者はスタンディングオベーション。 ただ一人、コヴェントガーデンの女王ネリー・メルバが舞台袖から冷ややかな視線を…。

「人生最高のリゴレットになる!」翌日、意気揚々と劇場へ行くと、プログラムの自分の名前が消されているのを発見。「若すぎる」という理由でメルバが別の歌手を要請したと知る。劇場監督を待ち伏せして、通訳を通して罵倒しまくる。「違法だ!」との発言が面倒を起こしかけ、ロンドンから遁走。

5年後の仕返し。ナポリ、サン・カルロ劇場のボックス席に現れたメルバは、ルッフォのハムレットにウットリ…。
「彼と《ハムレット》をやりたいわ。もちろん私がオフィーリアよ」
「僕と共演するには年上すぎる」と冷たくお返事。



【忍耐の時】
1901年、カイロ。初めてのエジプトで大はしゃぎ。夜の町をほっつき歩き、「裸同然の女が蛇みたいに全身をくねらせる」ベリーダンスを見物。翌日デング熱を発症。「正直、泣いた」。
《アイーダ》のアモナスロ役を途中降板。代わりに《サムソンとデリラ》の大司祭を(初役)。

カイロでの《アイーダ》リベンジは翌1902年にチャンスが巡ってきた。奇しくもアモナスロ役のバリトンがルッフォと同じデング熱にかかり、代役として声がかかったというオチ。
「嬉しかったです。他人の不幸がではなく、諦めなければ夢は叶うのだということが」

1903年。トスカニーニに認められてスカラでの《リゴレット》出演が決まる。ユーゴーの原作を深く読み込み、役と時代設定を研究する。しかし1904年、リハーサルに赴くとトスカニーニの姿はなく、カンパニーニが指揮をすると知って大いに落胆。
有名な、トスカニーニ「仮面舞踏会アンコール事件」の被害者の一人となった…という結末。

1905年、母が腕の中で死んでゆく悪夢を見て、ローマへ飛んで帰る。まさに息を引き取る寸前であった。家族の生活をほぼ一人で担っているルッフォに、蓄えはあるのかと尋ねる母。5万リラの預金があると嘘を。母は「これで安心して死ねるわ」。

1905年、オデッサ。ルービンシュタイン《悪魔》(初)。 サンクトペテルブルクで《シャモニーのリンダ》。同日、別の劇場でバッティスティーニが同演目を歌う。翌日の新聞はアントニオ・コトーニ以降、彼に比べうる唯一のバリトンはルッフォ」と褒めちぎる。勝った…とご満悦。

1905年、パリ。ジョルダーノ《シベリア》のフランス初演に参加。 同じくフランス初演の《フェドーラ》ではカルーソーと初共演。 ミラノでマスネ《ノートルダムの曲芸師》ボニファス初役。こちらはイタリア初演。 初めてづくしの年。



【スターダムへ】
1905年、パリでヴィクトール・モレルと会う(この頃60代だったモレルは既に何度もルッフォの舞台を観ており、興味を示していたという)。モレルがピアノにもたれてオテロやファルスタッフ、シモンを歌うのを聴き、すかさずメモメモ。厚かましくも自分の歌も聴いてもらう。

1905-1907年初頭。血の日曜日事件後の不穏な世情の中、サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ等を回る。「この年のロシアで歌う勇気のあるイタリア人歌手は私以外にはいなかった」。 そろそろ太陽が恋しくなってきた頃、リスボンでの《ハムレット》のオファーが来る。

1907年1月、リスボンで《ハムレット》。初役、サンカルロ劇場デビュー。初日は大緊張。母の写真にキスし、憧れの年上のソプラノ、ベネデッタお姉さま(南米ツアー時代からの付き合い)に付き添われてステージへ。オフィーリアとのデュエットで拍手が起こり、全身の血が戻ってくる。

成功を確信した瞬間は「乾杯の歌」。長いカデンツァを一息で歌うという超人的な離れ業(研究と訓練を重ねたとのこと)に観客は熱狂。アリアが終わるのを待たず大喝采に包まれる。アンコールを求める声。リハで大喧嘩をした(またですかw)指揮者も「歌え!歌え!」と手振りで促した。

「告白すると、乾杯の歌は私の好みではないのです。が、私のハムレットには必ずこのアリアが付いてまわります」 この後、更に9回ハムレットを歌う。切符は1週間で売切れ。 ルッフォは何年も前からこの役を歌いうことを望んでいた。膨大な持ち役の中でも特別な思い入れがあったようだ。

ルッフォがハムレットに入れ込んだのには、キャリア初期から彼を励まし続け、田舎わんこからチャンピオン犬にまで育ててくれた女神、ベネデッタの影響が大。シェイクスピアを読んでハムレットとオフィーリアに感動した頃、頻繁に彼女と文通して想いを募らせていたという。 この辺り、おじさんの筆はロマンティックの極み。

「私のハムレットを押し付けようとは思いませんが、私のハムレットは私だけのものです。同時代の誰かから学んだのではない。何年もの研究と情熱、そして私を奮い立たせてくれたベネデッタの熱い言葉と洞察によって、半ば強いられるようにして得たと言っても過言ではありません


---------【トリビア】---------
(*1)本人は「幸運を呼ぶ名前」として気に入っていたよう。
「ティッタ家には3人のルッフォがいます。最初のは犬。二番目が歌手(私)。三番目が大学教授、私の息子です」 「この伝統(ルッフォと名付けること)を息子が受け継いでくれたら嬉しい」

(*2)ローマの家には、トロヴァトーレの1シーン(獄中のアズチェーナ、レオノーラ、マンリーコ)の絵が飾ってあり、ルーナ人形(何それ?フィギュア?)があったらしい。

(*3)「夜中に遠吠え大声で歌っていたら窓やドアの外に人が集まってきて大喝采」という自慢話がルッフォの自伝に何度も出てくる。ミラノでの修行時代、リゴレットを歌うルッフォの大声にたまげた洗濯おばさんは「まるでタマーニョみたい!」と叫んだ。

(*4)ミラノのレストランでプッチーニがリコルディ、レオンカヴァッロと一緒にいるところを目撃したことがあるそう。

(*5)駆け出しの頃は何かにつけて興行主にボーナスを要求し、「泥棒!」と罵られることも。稼ぎの大半は家族へ仕送りし、自分は常にすっからかん状態だった。髪をボヘミアン風に伸ばしていたのは、当時《ボエーム》のマルチェッロを歌うことが多く、「カツラを買わなくて済むから」。

(*5)読書が好きで、休暇中は大量の本を読み漁ったという。初めて読書の楽しみに目覚めたのは家出中の頃で、愛読書は『モンテクリスト伯』。こうして読み書きを学んだ。
文学作品の中で特に気に入っていたのはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』、『ハムレット』。ルッフォは自分の性格を「シリアスでメランコリック」だと思っていたようで、悩めるデンマークの王子様の影は「常に私に寄り添っていた」とのこと。

⇒後半のハイライトへ続く

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keyaki

>1977年6月9日、ピサに生まれる。
わぁ! 1977ってグリゴーロじゃないの…

面白いです。
by keyaki (2012-07-27 20:08) 

しま

■keyakiさん
うわっ、生年は基本中の基本なのに!! というわけで直しておきました。ご指摘ありがとうございました。

もしや・・?と思って見直したら、他にもあったんですよ~www
こないだはアルバレスを100才年とらせちゃったし。

>面白いです。
いや、ネタじゃないです(笑)
by しま (2012-07-28 00:14) 

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