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ルッフォの自伝 “La mia parabola” ハイライト/後編 -- 世界制覇。そして放物線は下降する。 [オペラの話題]

《ドン・カルロ》ロドリーゴに扮したスチール写真を見上げる、最晩年のルッフォ。ruffo_rodorigo.jpg
 ティッタ・ルッフォの自伝、“La mia parabola”(『我が人生の放物線/我が盛衰』)、読了。後半のハイライトをまとめます。(⇒ハイライト前編はこちら

 まんまヴェリズモだった前編とは一変して、後半は大スターとしての華々しい活躍の自慢話に終始……と、思いきや。そこは “天然ヴェルディアン” のルッフォのこと。ご本人はいたって真面目ですが、行間から漏れ聞こえてくるズンチャッチャ。ハイテンションで波乱万丈なイタオペ人生は変わりません。

 どうもこの人はトラブルを招きやすい体質というか、自分から悲劇に飛び込んでいきがちな性格であるように見受けられます。そこが既にヴェルディなんですが、悲しみにどっぷり浸っている姿にこちらはついつい吹いてしまったりして(失礼ながら)、そんな“作風”もヴェルディそのもの。ルッフォという人の一筋縄ではいかないオモシロ魅力は、後半でもますます光っています。

 20世紀に入り、「自動車」や「電話」などの近代的なアイテムを利用しつつ、着々と世界制覇を果たしてゆくルッフォ。そういう“時代”だったということなのでしょうか、昨今とは比べ物にならないほどスケールの大きなスターへと大成していきます。
 カネと名声に貪欲で、北米デビュー時のエピソードはNYに上陸したゴジラとしか…(笑)

 そんな“モンスター・シンガー”ぶりを発揮したかと思えば、一次大戦が勃発すると、きらびやかなステージ衣装を脱ぎ捨てて戦場へ赴き、一介の兵卒として銃を担う。カネや名声だけではなく、要は生きること全てに貪欲な、一徹な男だったのではないでしょうか。
 それは女性の愛し方においても同じで、感動的なエピローグが一転、某所でちょっとした物議を醸した例のオチが、ルッフォの人生の全てを語っていると思います。

 共演者や親交を深めた人々の名前に、超有名人やヒストリカル音源でお馴染みの方々が含まれているのも興味深いところです。ルッフォの生き生きとした語り口によって、歴史というレリーフに刻まれた彼らの瞳に光が宿り、ゆっくりと首を私たちに向けるかのよう。彼らもまた生きて、我々のように泣いて笑って、その人生の一部がレコードの歌唱に凝縮されているのだと思うと、古い雑音まみれの音源がこれまでとは別の響きをもって胸に迫ってきますね。

 ところで。ちょっと気になるのは、こんなにも雄弁なルッフォの筆が1924年の中米ツアーの出来事を書いた時点で唐突に止まり、いきなり締めくくりのパラグラフに飛んで終わっていること。24年といえば演技はますます円熟味を増し、それこそla parabola(放物線)の頂点に立っていた時代です。

 その後の下降線の人生を振り返る気になれなかったのだとしても、あまりにも尻切れトンボでルッフォらしくありません。想像にすぎませんが、本来もう少し続いていた部分を、おそらくはルッフォ自身の手で削除したのではないかという気がするのです。

 その根拠の一つに、ルッフォの息子ルッフォ・ティッタ・ジュニア氏の手によるエピローグがあります。これは1937年の出版当初には無かった部分で、1977年に付け加えられたもの。

 それによると、1924年コロンビアのボゴタでの公演中にイタリアの社会主義者ジャコモ・マッテオッティ⇒wiki)暗殺の報せを受け、その事件をきっかけに急激に祖国のファシスト政権との対立を深めていったとあります。マッテオッティはルッフォの妹の夫だったということです。

 ルッフォは直接的な政治活動に関与したわけではありませんが、あからさまにファシストを敵視する言動で当局から目をつけられ、相当手ひどい弾圧を受けたようです。1924年以降のルッフォの歌手活動は、1934年に引退するまで、常にファシストとの闘いの中にありました。さらに1937年の自伝出版の直後、ローマで反ファシスト派として逮捕されたりもしています。

 自伝を著した当時はまだまだ弾圧の真っ只中であり、敵対勢力との闘争を無視できないキャリア後期の活動については、途中までは書いたんじゃないかと思いますが、最終的に削除することを選んだのではなかろうか。

 だとすれば、最終章に唐突に現れるこの一文、「これまでの人類の歴史が希望よりも恐怖にさらされているのであれば、未来にはいったい何が残されているのか」が、一本の長い針のように、すっと心に刺さってきます。

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 ひたすらに歌を愛し、ハムレットを愛し、己に忠実に生きたルッフォおじさんのキャリア後半。
(誤訳や読み飛ばしの可能性があることをあらかじめお断りしておきます。間違いがありましたらご指摘ください)

【女神の死】
最愛のベネデッタが死に瀕し(出会った頃から病を患っており、ルッフォが治療費の負担を申し出たことも)、彼女の故郷ベネツィアで最期の時を共に過ごす。
1907年、ルッフォの30才の誕生日に「我が人生の女神」逝去。酒に溺れ、彼女の墓の前に座り込む日々が続く。

数ヶ月間飲んだくれ、劇場出演もなくなる。他の歌手たちから「お前はもう終わりだ」と嘲られる。
部屋に跪き、彼女の魂に祈るルッフォ。
「どんな姿でも構わない、側に来て、導いてください。貴女の教えてくれた道を大きく踏み外してしまったのなら、どうか許してください」
そして光の世界へ立ち戻ることを誓う。

1907年10月、ミラノ・テアトロ・リリコにて《ハムレット》を歌い復帰。ルッフォを案じた劇場支配人の計らいによる。
「君の愛した女性の為、君の将来の為、そして我らが劇場の栄光の為に」
立ち直ると同時に結婚(←変わり身、早っ!)(*1)


【ハムレットで世界制覇】
テアトロ・リリコで《ハムレット》。演出にルッジェーロ・レオンカヴァッロの手が入る。この公演の成功によりキャリアのピークへ突入。「ミラノ中のアーティスト達が劇場に来た」
1907年ブカレストでヴェルディ諸役。興奮した観客がステージドアに詰めかけ、「ティッタ・ルッフォ万歳!」

1908年、マドリードで《リゴレット》「主役にもかかわらず看板にマントヴァ役より小さな字でクレジットされるという無礼」を乗り越え大成功。スペイン王アルフォンソ13世も天覧。宮廷に招かれる。
王様に趣味を尋ねられ、即位記念の切手を頂いたと自慢(*2)

スペインは第2の故郷! バルセロナの闘牛場にて、高名な闘牛士ホセ・ゴメス・ガジートは金のマントをルッフォに投げ、「貴方の栄光を讃えてこの牛を捧げます!」。5万人の観客がルッフォの名を叫ぶ。
その晩は闘牛士達とホテルでどんちゃん騒ぎ。エスカミーリョ気分を満喫。

1908年ブエノスアイレス。コロン劇場で《ハムレット》。「声に合っていない」と酷評される。 登場オープンしたばかりのコロン劇場はライヴァル劇場から攻撃されており、酷評はライヴァルの陰謀とのこと。「私は劇場の未来を背負っていた」。大声マックスで歌い、結果、切符は連日売り切れ。ルッフォとコロン劇場の勝利。

1915年、コロンでカルーソーと共演。《道化師》。切符はとんでもない高値を記録。両者の「プロローグ」と「衣装を着けろ」のレコードが出回っていた為、録音と同レベルのパフォーマンスを期待され、ルッフォもカルーソーも大プレッシャーだった。「ラテン人の聴衆は容赦がない」


【父との和解】
1909年(*3)、ローマ。初舞台を踏んだコスタンツィ劇場で《ハムレット》。オケピ前の席に父親の姿を発見。感極まってハムレットが母に詰め寄るシーンに熱が入る。
楽屋で再会し、固く抱き合う。
「わしはお前が音楽を学ぶのを手助けするどころか、邪魔だてしかしてこなかった」
「お父さんに厳しく突き放されたからこそ、自分の力で身を立てることができたんです」


父の髪は白くなり、悲しそうな目をしていた。子どもの頃にさんざん投げつけた酷い言葉を、心から父に詫びるルッフォ。
父は「最も感動したのはハムレットと母のシーンだ」と言った。

ローマでの再会から4年後。「死ぬ前に一目会いたい」と訪ねてきた父は、ルッフォと食事をして別れた直後に卒中で倒れる。手を尽くすも3日後に亡くなる。
遺品のペンダントの中から小さな写真を見つける。裏には父の筆跡で「私のかわいいルッフォ」と書かれてあった。


【まだまだハムレット】
パリ、オペラ座で《ハムレット》。3幕“To be or not to be”で幽体離脱を体験。
準備をしてベッドに横たわっていると、突然、舞台の外から自分自身を眺めている状態に。音楽が始まっても舞台の自分は何も歌わず、支配人が飛んできて『死んでいる!』と叫ぶ。

やがて幻は去ったが、3幕を演じる間ずっと夢うつつで、生と死の世界を行ったり来たりする感覚にとらわれる。 「あの瞬間、私はまぎれもなくハムレットだった。そしてハムレットは私だった」
『ガラスの仮面』ですか?


【わんこ、ライオンゴジラになる】
1912年、北米初上陸。「世界最高のバリトン」(*4)と宣伝。カルーソー並のギャラを要求し論争を招く。
NYでの記者会見の後、契約外のメトに1日だけ出演させられるとを知る。演目はやっぱり《ハムレット》。“その道の人”っぽい連中に「二度とメトの舞台に立てなくしてやる」と脅される。

さすがのゴジラも声を発することもできぬほど緊張してステージに。しかし予想だにしなかった雷のような拍手喝采に迎えられる。メトでの初舞台は成功。ヴィクトール・モレルが楽屋を訪れ「おめでとう」を言った。 大多数の新聞に過小評価されたが(*5)「カルーソーの美とタマーニョの力強さ」と褒めた評論家も。

同年、フィラデルフィアのメトで《リゴレット》《仮面舞踏会》《ハムレット》《トロヴァトーレ》。これがきっかけでビクター・トーキングマシーン会社と契約、多数の録音を残す。


【わんこ、戦争へ行く】
第一次世界大戦勃発。1916年、39才の時。徴兵に応じてイタリアに戻る(*6)。第204歩兵大隊へ配属。上官は知人のテノール歌手で、あれこれ贔屓してもらう。
伍長に昇進して高射砲部隊へ。手柄をたてたいと張り切るが、「テルニ赴任中、敵機は全く現れなかった」

フランス赤十字社の慈善公演で《ハムレット》。最後に軍服姿でステージに上がり、愛国歌をフランス語とイタリア語で歌う。 その後健康を害し、フィレンツェの高射砲部隊へ転属。

戦場でもユーモア精神を忘れまいとコスプレを楽しむ。スペイン王から賜った勲章を軍服に着けていると、を将軍に見とがめられる。
「一介の伍長がなぜそんな勲章を?」 「スペインの宮殿にお茶に招かれた際に…」 「ふざけるな!」
副官が「有名な歌手のティッタ・ルッフォです」と説明したが、将軍は「あり得ん!」

テルニからボローニャへ脱走兵を移送する任務につく。手錠を掛けるのをやめ、フルコースのディナーを食わせてやると、反抗的だった兵士は感激して、まるで弟のようにルッフォに懐く。
「ありがとう、伍長さん。神様があんたを守ってくださるように!」


【カルーソーとヴィクトール・モレル】
一次大戦が終結し、舞台へ復帰。1919年、メキシコシティーで《道化師》など。《セビリアの理髪師》「町の何でも屋」で声が伸びずに苦労する。
1920年、シカゴで《エディプス王》世界初演。レオンカヴァッロはこの最後のオペラをルッフォのために作曲した。

“親友”カルーソーの死
1919年、NYメトの支配人に招待され、《ユダヤ女》を鑑賞。エンリコ・カルーソーのエレアザールに感動する。それが忘れられず、翌年、同役を歌うカルーソーを再び聴きに行くが、「彼の偉大な声に何か重大な異変が生じているのに気づいた」

1920年、カルーソーが舞台で倒れる。見舞いに行き、骨と皮だけの姿にショックを受ける。NYメトから「カルーソーも望んでいる」と《オテロ》出演のオファーがあり、承諾するも、ほどなくしてカルーソー逝去。「愛する友の死に、部屋に閉じこもって泣いた」

ナポリでカルーソーの葬儀に参列。ナポリ中の人間が集まっていた。「棺に横たえられたカルーソーの顔を見るなりむせび泣いた。彼の胸に花を捧げ、急ぎその場を離れた。ミサ曲を歌って欲しいと頼まれたが断った。悲しみに押し潰されてそれどころではなかった」。 その後15日間、病で寝込む。
・・・いつカルーソーと親友になったのかしら?(*7)

“父”と慕ったモレルの死
1922年。メト《エルナーニ》で会ったきり数週間モレルの姿が見えず、心配になって家を訪ねる。バルコニーへよじ登って部屋へ入り、衰弱したモレルを発見。
1923年、ヴィクトール・モレル逝去。1870年の《グアラニー》世界初演時にモレルが着けたイアリングを形見に貰う。
・・・ちなみに、モレルの葬儀では歌っている。


【中米ツアーと終章】
1924年、初の中米へ。
またもや法外なギャラを要求してトラブルを起こす。キューバ、プエルトリコ、ヴェネズエラ等を巡業。
ボゴタにて、妹の夫がファシストに殺害されたと知らされる。ツアー最後の《リゴレット》をキャンセルし、暴動が起こる。

唐突な終章
「老年にさしかかろうとしている私は、今、とても活力に満ちた気持ちでこの自伝を書いています。
私は思うのです。これまでの人類の歴史が希望よりも脅威にさらされているのであれば、未来にはいったい何が残されているのかと。

しかし、世界はまだ若い。私の人生の放物線はゆるやかな下降線をたどっています。けれども人間の未来の道は、私自身完全に信じているわけではないにせよ、永遠に上昇線を描いていくのではないかと、想像を巡らしたりもしているのです」


 ルッフォ自身の筆による自伝は、1924年の出来事を記したところで終わり。この後にはルッフォの死後、息子のルッフォ・ティッタJr のまとめた短いエピローグが続きます。


【エピローグ】
1924年8月。妹の夫、ジャコモ・マッテオッティ(イタリア社会主義の書記)の葬儀に参列。この事件をきっかけにファシスト政権に敵意を。
1925年、生まれ故郷ピサのヴェルディ劇場で《ハムレット》。記念の銘板が飾られるが、ファシスト黒シャツ隊に破壊される。

政府の流したルッフォの誹謗中傷が各国の新聞に掲載される。
海外の劇場で「打倒ファシズム!」「自由万歳!」と叫び、パスポートを剥奪されかかる。 また、各国のイタリア人有力者への圧力により収入が絶たれる。
1929年、NYメトとの契約が突然失効。

1931年マルセイユ。反ファシストの多い都市で《セビリアの理髪師》。匿名の手紙や嫌がらせの電話、舞台裏での暴行等を受けるも、傷をメイクで隠してステージに立つ。

1932年、マドリードでルッフォの急死説が報道される。1934年に歌手活動を完全引退するまで嫌がらせは続く。
1937年10月16日、ローマで逮捕。汽車の中での体制批判的な発言を密告されたためと言われている。

釈放後は家族と離れ、フィレンツェに居住。ジーノ・ベキ、タリアブエ、ラウリ・ヴォルピ、ディ・スティファノらと交流。
1943年7月26日、ムッソリーニ逮捕が報じられると、窓を開けてフランス国歌を歌う。ルッフォの遠吠え歌声が公に響き渡った最後であった。

1943年9月、ドイツ軍のイタリア侵攻。今度はナチに目を付けられ、ポンテヴェッキオ近くのアパートに身を潜める。終戦後は共和国広場近くに居住。
1945年、20年前に破壊された銘板修復記念式典に招かれる。

1953年7月5日、自宅のベッドでティッタ・ルッフォ亡くなる。 本人の遺志に従い、最愛の女性ベネデッタと並んでミラノ記念墓地に埋葬された(*8)
……って、ちょっと待てコラ!Σ( ̄。 ̄ノ)ノ


---------【トリビア】---------
(*1)レアという名の妻との馴れ初めは全く自伝に書かれていません。

(*2)ルッフォの当時の趣味は切手蒐集だったそうです。

(*3)自伝には「1911年」と書かれていますが、息子の付けた注によると正しくは1909年。実は1911年にも《セビリヤの理髪師》でコスタンツィに出演しており、その時にも父親が観に来ているので、記憶がゴッチャになっているのだろうという事。

(*4)アメリカ流のオーバーな宣伝。他にも「神の声」などというキャッチフレーズが使われたりもした。

(*5)この時のNYタイムズのレビューを以前に紹介したことがあります(⇒もう少し、ルッフォのこと。-- キャリア初期~中期について)。新聞記事への直リンクはこちら
確かに、彼の大声量や“乾杯の歌”での驚異的なブレス・コントロールについては褒めているものの、「繊細さや悲哀、情趣などの感情表現については、歌唱においても性格的な面においても力量は認められない」と手厳しい評価を受けています。つまり「キャラが違う」と言われたわけで、この役に特別な思い入れを持っていたルッフォは怒り心頭だったでしょう。この評がルッフォを潰そうとした勢力による陰謀だったのか否かは、今となっては知る由もありませんが。

(*6)詳しい事情はわかりませんが、「徴兵免除も可能だった」というようなことも書いてあります。

(*7)カルーソーとは何回か共演しているので、その時に仲良くなったのであろうことは容易に想像がつくのですが、カルーソーの人となりであるとか、プライベートな思い出話であるとか、そんなことは一切書かれていないのが気になります。ヴィクトール・モレルについては晩年の悲惨な境遇までかなり暴露していますし、その他の有名歌手についても1~2行程度にはルッフォ自身の抱いた印象が必ず記されているものですが。個人的なコメントは周到に避けているように思えるのに、葬儀の描写のテンションがいきなり吊り上がるので、とても違和感を覚える部分。

(*8)Twitter上で最も物議を醸した“オチ”(笑)。
ベネデッタと呼ばれるこの女性は、ハイライト前半の初南米ツアーで出会った年上のソプラノ歌手で、ルッフォの歌手としての成長に大いに寄与した、まさに「ミューズ」と呼べる存在。特にハムレットの歌唱と役作りに影響を与えたようですが、ルッフォとの関係はイマイチ謎です。

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コメント 2

Basilio

おつかれさまでした!笑
や~ルッフォの人生のいくつかは、そのままオペラの台本にできそうですねww

最近なんというかどこを見てもネガティヴになりがちでしたが、この波瀾万丈な人生を送ったルッフォの自伝の最後の言葉を見て、なんだかもっとがんばらなきゃな、と思ったりしました。
by Basilio (2012-07-27 12:10) 

しま

■Basilioさん
ホント、疲れました~(笑)
忙しい時期だったというのもありますけど、テンションの高い文章を読むにはこちらのテンションも吊り上げなきゃならなくて。

>ネガティヴになりがち
そうだったんですか。楽しいCDレビューを読ませていただいている限りでは全然気付きませんでした。

私もこれを読んでいた時期は相当追い詰められていて、かなりネガティブだったんですが、自伝のおかげで乗り切れたと思っています。良き読書体験でした。
by しま (2012-07-28 00:05) 

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