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エーベルハルト・ヴェヒターの『ドン・ジョヴァンニ』・および、バリトンかバスかという問題 [オペラ録音・映像鑑賞記]

 エーベルハルト・ヴェヒターの『ドン・ジョヴァンニ』を聴きました。
 ヴェヒターも高めのバリトンですね。FDとよく似たドイツ的(?)な歌唱が微妙に気になりますが、底抜けに陽気で、どこか呑気なところもある“ナンパ師”といったキャラクターが好印象。

 そういえば、この作品について、私が子どもの頃に抱いていたイメージには、こういうブッファ的な色合いが濃かったように思います。アンナが登場するとちょっと悲劇的な空気になるけど、それ以外ではエルヴィラ、レポレッロを相手にドタバタ、ドタバタ。
 ところが、ラストの石像の登場で、物語は一気に暗転する。その劇的な展開に度肝を抜かれたものでした。

 なので、幕開けから一貫して不吉な雰囲気を漂わせる演奏や演出は、実はあまり好みではありません。demonicなドン・ジョヴァンニも、試みとしてはおもしろいとは思いますが、レポレッロと早口でまくしたてる旋律がキャラと合わないので、イマイチ気持ちが入っていかないのですね。

 というわけで、ドンジョはつやつやしたバリトン希望。バスでも声が明るきゃいいですが、要所要所でずっしりと重く響きますので、軽薄なドンジョのイメージからはちょっとズレてしまいます。

 立派なバス声は、クライマックスで石像が聞かせてくれるからいいんデス。

 ドンジョに高めのバリトンを望むのは、このクライマックスでの三重唱(ジョヴァンニ、石像、レポレッロ)が最大の“萌えポイント”だからなんですね。

 クライマックスの直前まで、華やかで生命力にあふれたパートを歌っているドン・ジョヴァンニ。ところが、石像の登場とともに重厚で不吉な和音に押さえつけられ、たちどころに身動きがとれなくなります。このオペラ全体の楽曲の進行を支配し、操っていた権力が、主人公のジョバンニから石像に移るわけです。

「Parlo: ascolta! piu tempo non ho! (I will speak. Listen. My time is short!)」
 と歌う石像のパートが、ティンパニ付きの、大音響の管弦楽に後押しされているのに対し、

「Parla, parla, ascoltando ti sto, (Speak then, for I am listening,)」
 ジョバンニのパートの伴奏は弱々しい弦楽器と木管だけ。
 うわ言のようなレポレッロのパートでさえ、2回目は石像のパートのほうに重なっていますので、この部分でのジョバンニは、どんなに気丈そうな歌唱であっても、哀れで、処刑台の前に独り立たされた者のような危うさが感じられると思うのです(モーツァルトって、やっぱ凄い)。

 「オトコが痛めつけられ憔悴する図」に萌えるワタシとしては、できればここで、石像とタイマン勝負してほしくない。意地を張ろうと強がろうと、声の力と迫力では圧倒的に石像に劣っていてもらいたい……というのが、ワタシの理想のジョヴァンニ像。ハイ・バリトンなら、そのような雰囲気は顕著に出やすい(と思います)。
 ただでさえ石像に抵抗する部分のジョバンニの旋律はキーが低め。バス歌手ならキレイに発声できますが、これが例えばアレンだとちょっと嗄れて聴こえます。アレンに比べれば低めの音域も得意そうなヴェヒターも、この録音ではさほどでもなく。結果、どちらも生身の人間らしい脆さが感じられます。

 低音域の迫力のなさをカヴァーするためなのでしょうか、アレンもヴェヒターもわざと音程を外して、演技過剰に聴こえるのがちょっと残念ではあるんですけれども(モーツァルトのオペラは音楽が心理描写も情景描写も全てカンペキに表現しているので、大袈裟な演技は必要ないと思っているクチ)。

 特に、石像が去った後にドン・ジョヴァンニが歌う
「Da qual tremore insolito
 sento assalir gli spriti! ……」
 あたりの旋律は大好きなので、きちんと聴きたい時にはサミュエル・レイミーのDVDを鑑賞しています(この人が歌うと、石像とタイマン勝負どころか、ヘタすりゃ石像より立派に聴こえマス)。

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