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サイモン・キーンリーサイドの『ビリー・バッド』 and other four Billys [オペラ録音・映像鑑賞記]

sk1.jpg Sardanapalusさん(以下、サルダナさん)から、サイモン・キーンリーサイドによる『ビリー・バッド』の音源を頂戴しました。BBCラジオで放送されたもので、キーンリーサイドのインタビュー付きハイライトです。
 ありがとうございます。そして、感想が遅くなってゴメンナサイ。

 今が旬のバリトン歌手、キーンリーサイドについてご存知ない方はいらっしゃらないと思いますが、まんがいち「誰?」ってお思いになった方は、ぜひサルダナさんのブログへおいでください。
ファンページはこちらです。画像お借りしてます)

 右の写真では爽やかでキリリとした貴公子(ビミョーに“後退”してるよーですが)に見えますけれども、実はなかなかお茶目さんなキャラのようです。

 ええと、お茶目さんと言えば、一世代前に同じような芸風(?)で人気を博したサー・トーマス・アレンのこともお忘れなく!!(`・ω・´) ←アレンを守る会
 得意とするレパートリーがけっこうキーンリーサイドとかぶっているので、もしも興味があったらいろいろと聴いてみてクダサイ

 ※アレンがキーンリーサイドと共演しているブリテンの『カーリュー・リヴァー』CDを探しています。どこも在庫切れでしてネ。売ってるトコ見かけたら通報ヨロシク!!

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ジョナサン・ミラー演出『ファルスタッフ』/新国立劇場 [オペラ実演レポ]

sinkoku-fals1.jpg さまよえる歌人日記のyokochanさんに煽られて(笑)急きょ行ってきました。新国立劇場の『ファルスタッフ』6/21、最終日の公演です。
 ジョナサン・ミラーの演出が良いとのことで、今回の実演鑑賞の目的は主に“絵”です。

「アンタ、“絵”には興味無いって言ってたじゃないの!!」
 って、ナイス突っ込み。
 実は、あの記事を書いた時に初めて自覚したんですよネ、自分は演出を重要視していないってことを。こういうのを「無知の知」って言うんでしょうか、自覚したとたんに、これまで脳内でオート消去していた「演出:誰々」って情報も少し気になるようになってきました。

 言うまでもなく、ジョナサン・ミラーは7月のROH『コシ・ファン・トゥッテ』の舞台美術と演出も手がけた人物です。予習も兼ねて、この人の“仕事”を少しでも体感しておきたかったのでした。

 あと、『ファルスタッフ』はウ゛ェルディでも特に大好きな作品なのに、まだ一度も実演を観たことが無い!というのも、今回の観劇を決めた理由の一つ。演出だって最初の刷り込みが肝心です。

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ウォルトン『ベルシャザールの饗宴』 with トーマス・アレン [アレンの録音・映像鑑賞記]

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 いわゆる“クラシック音楽”の終焉は、どの作曲家のどの作品を聴けば追体験できるのでしょうか。

 音階の定義から始まった西洋音楽が調性の可能性を追求し、次にはみずからが築いた制約からの解放を望み、「無調」なる概念に行き着いて、ほどなくバラバラに解体される。大変おおざっぱですが、西洋音楽史の流れについて、そんなふうに理解しています。
 解体――つまり、音楽として認識されるに足る最低限の統一性すら保てなくなったんだと思うのですが、このあたりに該当する作品を知らないので、想像でモノを言っています。

 二十世紀のちょっと前衛的な作品に興味を持っているのは、クラシック音楽の“末期”について自分なりの理解の落としドコロを明確にしたいという気持ちがあるからです。
 ウォルトンの『ベルシャザールの饗宴』はまったく未聴だったため、そういう前衛的な要素を含んだ管弦楽曲を想像しながら聴きました。例によって、予備知識ゼロの「一発勝負」。まぁ直接の動機は、アレンの録音を見つけたってコトなんですけどネ。

 予想に反して『ベルシャザールの饗宴』は、厳密な意味でのクラシックが終わった後に登場した、“ネオ・クラシック”とでも呼ぶべき音楽であるように感じました。いわゆる“クラシック”とは別ジャンルにしておきたいというか。
 演奏形態や作曲技法からすれば、むろん“クラシック”にカテゴライズされるのでしょうけれども。映画音楽と同じような、いわば「サブカルチャー化されたクラシック音楽」に思えます。

 と言いますのは、クラシックがまだ発展途上にあった作曲家にみられるような、その作曲家特有の“文法”とでも呼ぶべきフレーズ、和声、リズムが感じとれませんので。楽曲は大変洗練されていて聴きやすいのですが、それこそが問題なのでして、つまり、我々の耳に最も「心地よく」感じさせるためのセオリーにのっとった作曲スタイルである、ということです。
 セオリーとは、過去の作曲家が試みて成功した(一般聴衆に受け入れられた)作曲技法の「まとめ」ですから。いいとこ取りってヤツですね。

 それが悪いってわけじゃありませんが、やはり“クラシック”なスタイルの西洋音楽は二十世紀のある時点で終わったんだなという思いを強くしました。
 音楽であれ文芸であれ、サブカル的な作品が台頭するということは、母体となった芸術が行き着く所まで行ってしまってこれ以上の発展は無いということ。

 芸術とは可能性の追求であり、定石を嫌い、新たな時代の精神の開拓者でなければならぬと信じています。作り手の感性と受け手の感性の追いかけっこ。その時代の精神にピタリと一致した作品は広く大衆に受け入れられますが、それだけでは芸術として何か足りない。
 だからといって、わけのわからん変ちくりんなモノを作れと言うつもりはありませんが、受け手に拒否反応を起こさせる何か、作品を完全に洗練させないための“汚れ”のような部分が残っている作品はやはり好きです。自分の胸中に突如生じた「拒否反応」の中に、新たな時代の精神――可能性――を見い出すことができますので。

 こんなふうに書くとまるでウォルトンがダメみたいに聞こえてしまうのですが、そういうことではないんです。実際、二十世紀後半~二十一世紀の“時代の精神”を表現し得るのは前衛などではなく、むしろサブカル的な芸術であると思いますし。ある意味、西洋音楽の集大成と呼べる作品なのかな、と。こういう作品が出てくることそのものが「偉大」というか。

 『ベルシャザールの饗宴』は、オルフの『カルミナ・ブラーナ』と並んで人気の管弦楽曲だそうです。
 なるほど。ド迫力な合唱はもちろんのこと、異国情緒あふれる旋律やオドロオドロしい雰囲気、躍動的なパーカッションなど、共通要素が多いですね。そして、どちらの曲にもバリトンの独唱パートがあります。

 アレンはこういうの上手いです。上手いんですが、『カルミナ・ブラーナ』の感想と同じく、若干の物足りなさを感じます。なぜかしら。パフォーマンスに難は無いと思うのですけれども。その“難が無い”というのが問題なんでしょうか。

ブランク出演の『ボリス・ゴドノフ』@ライモンディ版の詳細 [オペラの話題]

raimongodunov.jpg 我が家のこちらのコメント欄にて、ちょっとローカルに盛り上がっている、エルネスト・ブランク出演の(全曲盤のライブではおそらく唯一と思われる(*1)正規映像『ボリス・ゴドノフ』についてです。

 1980年、パリ・オペラ座。ルスラン・ライチェフ指揮。
 タイトルロールはルッジェーロ・ライモンディです。

 ライモンディといえば最強の方を(ワタシが一方的に)存じ上げています。ヴァラリンさんやサルダナさんちでお名前をお見かけするkeyakiさん。この方でしたら詳細をご存知だろうということで、そうっとブログとサイトにお邪魔をしてみました。



 あっけなくわかりました。



 こちらのルッジェーロ・ライモンディのホームページのトップページ、上から1行目/左から2列目の画像をクリックすると、該当の映像の詳細ページが見られます。

 なんと演出についての解説pdfもアップされていて、そこにエルネスト・ブランの名前もありました。

 書記官シチェルカーロフ役のようです。
(ランゴーニじゃなくてちょっと残念ですが、多分そうなんだろうと思っていたし、いいんだっ……)

 ついでに付け加えておくと、ワルラーム役はオーゲ・ハウグラントです!!(*゚Д゚)

 オーケストラを舞台後方の巨大鳥籠に収め、通常の演劇のように演者が観客のすぐ目の前に立つという、とっても斬新な演出だったようです。
 keyakiさんのブログのこちらの記事にもありますが、歌手達はいたるとことにおいてあるモニターで指揮を見たとのことで、出番の少ないブランク先生もそうやって歌ったのでしょうか。

 衣装も、『ボリス・ゴドノフ』と聞いて我々がすぐに思い浮かべる、金ピカのアレではないみたいです。いや金ピカは金ピカなんですが。ブランク先生はどんな衣装だったのでしょうかネ~(*´∨`)

 keyakiさんのブログでは、この舞台の第1幕第2場、ワルラームとミサイルが居酒屋にやってくるシーンがアップされています。

 好きな場面ですし、話題の演出の雰囲気もつかめました。northwestさん、ウタコさん(オーゲのファンだよね?)、これはチェック必須ですよ?(。+・`ω・´)シャキィーン☆

 keyakiさん、貴重な映像をありがとうございます。

(*1)
'12,3,13 訂正。二つめがありました。チリ、サンティアゴ歌劇場での《サムソンとダリラ》。正規の全曲盤です。⇒⇒こちら

年配で低声な男性歌手 [オペラの話題]

 椿姫さんトコでいただいたコメントへのお返事なんですが、長々と語りたくなっちゃいました。ご迷惑だと思うので、自分ちで書きます。

 ハイ。年配で低声な男性歌手が大好きでありますっ。

 ……アレンを“低声”にカテゴライズするのは微妙なんですが、でもまぁ、テノールより低いことは確か。

 バリトン好きなのは生まれつきです(たぶん)。理由はよくわかりませんが、聴いていてドキドキする――自分が女性であることを自覚させられる、ちょっとセクハラされちゃったみたいなイヤ~ンな気分になるのは、バリトンと呼ばれる音域・声音だけなのです。
 「好み」というよりむしろ「性癖」。太くてデカい声であればあるほど、イヤ~ン度は増しますネ(*´∨`)

 何事にも「例外」とゆーのが存在しまして、アレンみたいなか細い声でもバリトンなんだから好きなんですヨ(`・ω・´)  ただやっぱ、イヤ~ンとはなりませんねぇ……。


 ついでに言うと、オペラ好きのご多分に漏れず、そのうち声楽とか習ってみたい人なんですが、自分の声がバリトンじゃなきゃイヤンです。
 歌ってみたいのは、ドン・ジョウ゛ァンニのセレナーデ♪
 まんがいちバスだったら、『エルナー二』のシルウ゛ァの「わしは不幸な男だ」とか歌いたいデス。
「いんふぇり~ちぇ…(*´Д`)♪」

 まぁ現実はメゾだと思いますので、アズチェーナでがむばりますか……(´・ω・`)

 って……、ここで本当に語りたかったのは「低声」のことじゃなくって、「年配」ってポイントについてだったのでした。

 もとい。

 「年配」
 ええ、まぁ……好きなんですけどね、オジサン。趣味嗜好というよりも、結果的にそうなってしまったと言うほうが正確でしょう。
 これは間違いなく、ワタシのオペラ鑑賞がほぼ全てCDに頼っているせいなんです。

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グロソップのルーナ伯爵 in 《イル・トロヴァトーレ》 [オペラ録音・映像鑑賞記]

 女性はホルモンバランスの加減によって、マッチョで野生的な外見の男性を好む時期と優しそうな感じの男性に惹かれる時期とが交互に訪れるんだそうです。以前、何かの本で読みました。

 「まさかぁ~」と思っていたんですが、ピーター・グロソップのムキムキ系の声に惚れて一ヶ月ちょい。振り返ってみると、確かに、アレンの繊細な歌唱にウットリする時期があったかと思えば、グロソップの筋肉質なお声にドキドキしたり。嗜好の振り子が、対極的な二つの歌唱の間を行ったり来たりしていたような気もします。

 そろそろ“生アレン”に備えて“コジ”のCDをトコトン聴き込んでおきたいと思うのですが、ワタクシのホルモンバランスはモロにグロ様week真っ只中なもので、空輸されたばかりの《イル・トロヴァトーレ》を鑑賞。'72年オランジュ音楽祭でのライブ映像で、グロソップは(当然)ルーナ伯爵を歌っています。

 嗚呼ようやく、好みの声でルーナを聴けます。エットーレ・バスティアニーニも野性味があって素敵なんですが、バリトンのくせに二枚目というか、やっぱ声そのものが洗練されてますよね。思いっきり動物園雄臭いバリトンを期待してヴェルディに手を伸ばすワタクシとしては、ゴリラっぽい(←おい)グロソップのほうが満足度が高いンですヨ。

 ゴリラって……もちろん“声”のハナシですよ?

grojago.jpg そりゃね、《オテロ》のイァーゴでは、
サンダーバードとか猿の惑星とか類人猿とか
さんざん言われましたケドね。

 この映像でのルーナは、結構イケてると思います(`・ω・´) シャキーン


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