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ウォルトン『ベルシャザールの饗宴』 with トーマス・アレン [アレンの録音・映像鑑賞記]

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 いわゆる“クラシック音楽”の終焉は、どの作曲家のどの作品を聴けば追体験できるのでしょうか。

 音階の定義から始まった西洋音楽が調性の可能性を追求し、次にはみずからが築いた制約からの解放を望み、「無調」なる概念に行き着いて、ほどなくバラバラに解体される。大変おおざっぱですが、西洋音楽史の流れについて、そんなふうに理解しています。
 解体――つまり、音楽として認識されるに足る最低限の統一性すら保てなくなったんだと思うのですが、このあたりに該当する作品を知らないので、想像でモノを言っています。

 二十世紀のちょっと前衛的な作品に興味を持っているのは、クラシック音楽の“末期”について自分なりの理解の落としドコロを明確にしたいという気持ちがあるからです。
 ウォルトンの『ベルシャザールの饗宴』はまったく未聴だったため、そういう前衛的な要素を含んだ管弦楽曲を想像しながら聴きました。例によって、予備知識ゼロの「一発勝負」。まぁ直接の動機は、アレンの録音を見つけたってコトなんですけどネ。

 予想に反して『ベルシャザールの饗宴』は、厳密な意味でのクラシックが終わった後に登場した、“ネオ・クラシック”とでも呼ぶべき音楽であるように感じました。いわゆる“クラシック”とは別ジャンルにしておきたいというか。
 演奏形態や作曲技法からすれば、むろん“クラシック”にカテゴライズされるのでしょうけれども。映画音楽と同じような、いわば「サブカルチャー化されたクラシック音楽」に思えます。

 と言いますのは、クラシックがまだ発展途上にあった作曲家にみられるような、その作曲家特有の“文法”とでも呼ぶべきフレーズ、和声、リズムが感じとれませんので。楽曲は大変洗練されていて聴きやすいのですが、それこそが問題なのでして、つまり、我々の耳に最も「心地よく」感じさせるためのセオリーにのっとった作曲スタイルである、ということです。
 セオリーとは、過去の作曲家が試みて成功した(一般聴衆に受け入れられた)作曲技法の「まとめ」ですから。いいとこ取りってヤツですね。

 それが悪いってわけじゃありませんが、やはり“クラシック”なスタイルの西洋音楽は二十世紀のある時点で終わったんだなという思いを強くしました。
 音楽であれ文芸であれ、サブカル的な作品が台頭するということは、母体となった芸術が行き着く所まで行ってしまってこれ以上の発展は無いということ。

 芸術とは可能性の追求であり、定石を嫌い、新たな時代の精神の開拓者でなければならぬと信じています。作り手の感性と受け手の感性の追いかけっこ。その時代の精神にピタリと一致した作品は広く大衆に受け入れられますが、それだけでは芸術として何か足りない。
 だからといって、わけのわからん変ちくりんなモノを作れと言うつもりはありませんが、受け手に拒否反応を起こさせる何か、作品を完全に洗練させないための“汚れ”のような部分が残っている作品はやはり好きです。自分の胸中に突如生じた「拒否反応」の中に、新たな時代の精神――可能性――を見い出すことができますので。

 こんなふうに書くとまるでウォルトンがダメみたいに聞こえてしまうのですが、そういうことではないんです。実際、二十世紀後半~二十一世紀の“時代の精神”を表現し得るのは前衛などではなく、むしろサブカル的な芸術であると思いますし。ある意味、西洋音楽の集大成と呼べる作品なのかな、と。こういう作品が出てくることそのものが「偉大」というか。

 『ベルシャザールの饗宴』は、オルフの『カルミナ・ブラーナ』と並んで人気の管弦楽曲だそうです。
 なるほど。ド迫力な合唱はもちろんのこと、異国情緒あふれる旋律やオドロオドロしい雰囲気、躍動的なパーカッションなど、共通要素が多いですね。そして、どちらの曲にもバリトンの独唱パートがあります。

 アレンはこういうの上手いです。上手いんですが、『カルミナ・ブラーナ』の感想と同じく、若干の物足りなさを感じます。なぜかしら。パフォーマンスに難は無いと思うのですけれども。その“難が無い”というのが問題なんでしょうか。

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