《ジャンニ・スキッキ》/Royal Opera House 10/24,10/28 [アレンの実演鑑賞記]
通常なら順番に《スペインの時》から感想を書くのですが、いきなりスルーしてジャンニに行きます。
だってトーマス・アレンのジャンニ・スキッキを直に体験することは、ほぼ1年前からの私の悲願だったんですもの!!
それに、《スペインの時》はキャストも前回とほぼ同じで目新しさはありませんから(←おい)。
最近は忙しくてあまりブログ更新に時間をかけていられませんので、とりあえずアレンの実演鑑賞についてだけ備忘録っておくことにします。ごめんなさい。
リチャード・ジョーンズの演出による当プロダクションは、07年4月に英国ロイヤルオペラ(ROH)で新作上演されたもの。今回は2年ぶりのリバイバルです。
初演のスキッキはブリン・ターフェルで、かなり好評を博したようです。
実は私、それがちょっと気になっておりまして…。
こういうアクの強い役は、初演の歌手のキャラクター性に合わせて演出が付けられるようなものじゃないですか。LAの“マフィア”スキッキなんかは、それこそ「アレンの役です」と言っても差し支えないと思うのですが、ジョーンズの“野球帽”スキッキは、やはりターフェルが演じてこそ最大の魅力を発揮するのではないかと…。もちろん、ターフェルのを観たことは無いんですけど。
でもねぇ。こんな短期間でROHのジャンニがリバイバルになったのは、やはりLAでのアレンのジャンニ・デビューが(ウッディ効果の甲斐もあって)成功を収めたからですし(スポレートでの再演とROHのオファー、ほぼ同時に決まりましたから)、いくら“マフィア”スキッキを観たいったって6月に一人でスポレートへ飛ぶのはちょっと無謀な話でしたし(当時は、アメリカのスポレート音楽祭だとばかり思っていましたが)。
演出の違いはあれど、アレンの歌唱スタイルはほぼ“あれ”でいくでしょうし、彼のホームグラウンドで聴くジャンニならきっと気楽で楽しいでしょう。シモーネ役にグウィン・ハウエルの名前があったのも嬉しかったですし、そんなこんなで4回目のROH詣でを決意したのでした。
※ちなみに、先ほど気付いたのですが、初演のリヌッチョはサイミール・ピルグ。LAの“マフィア”スキッキでアレンと共演したテノールですね。
こんなところでご縁があったなんて知りませんした。オペラ界はなにげに狭い!!
サー・トーマス・アレンのリサイタル/Wigmore Hall 7/7 [アレンの実演鑑賞記]
今回、ウィグモアのホームページで予告されていたのはフランス歌曲ばかりでした。
歌曲の世界は全く不案内な私です。それでも、ドイツものやイギリスものならまだ何とかついていけると思ったけれど、おフランスだなんて……。オペラだってフランスものにはちょっと馴染みが薄いのに。
いくら兄さんの歌唱にベタ惚れだからって、知らない曲を延々と聴かされているだけでは、「シュテキ~(*´Д`)」だけで終わってしまうわ。
「この次、いきなり低い音になりますが、ダイジョブですか?」
「ココのフレーズ、レガートで歌いますか? それとも“オホホホ唱法”※注1で誤魔化しますか?」
なんて、心でツッコミを入れつつ鑑賞させていただくのが、兄さんファンをやっている醍醐味ってモンです。
そこで、行きつけのCDショップやiTunes Storeを駆使して、何とかプーランクとドビュッシーの歌曲集を探し出しました。時間が無かったので全てを集めるのは無理でしたが。
集めた音源のうち、プーランクの"Le Bal Masque"はアレンのもの。13年くらい前の録音で、まだ声音にぬめりがあります(笑) どうせすぐ生で聴けるのに、ついつい購入しちゃうんですよね。
その他のプーランクは、誰だか知らないフランス人歌手(複数)が歌っている4枚組CDで入手。オペラ歌手じゃないんじゃないかと思うくらい腹に力の入らんナヨナヨ声で、慣れるまではちょっと閉口しました。
ドビュッシーの"Trois Ballades De Forancois Villon"は、クリストファー・マルトマンのものがありましたので、それで予習。このCDはストレスフリーで聴けました。
こんなふうに気合いを入れて臨んでも、実際にアレンが目の前に現れると一瞬のうちに舞い上がってしまい、歌を聴いているんだか挙動に見惚れているんだかわからなくなっちゃうのですが、だからこそ、曲をある程度知っておいてよかったと思いました。
曲目は以下の通り。
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Poulenc and Courtly Love
Debussy : Trois Balldes de Fsancois Villon(3曲)
Poulenc : Songs from Poemes de Ronsard(3曲)
Duparc : L'invitation au voyage
Soupir
Le Manoir de Rosemonde
Ravel : Don Quichotte a Dulcinee
Poulenc : Le Bastiaire, ou Cortege d'Orphee
Poulenc : Le bal masque
Sir Thomas Allen baritone
Malcolm Martineau piano
Members of the Aurora Orchestra
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弁者に萌えろ デイヴィッド・マクヴィカー演出《魔笛》/Royal Opera House 2 [アレンの実演鑑賞記]
《魔笛》の歌詞や台詞を聞いていますと、耳タコ的に現れるのが「男らしくあれ」という言葉です。
「男なら沈黙を守りなさい」
つまり、目指すは高倉健ってコトね!?
一方、女性については、全体的に否定的。
「女は喋りすぎるから宜しくない」
むむむ。黙って聞いてりゃ、何サッ!! まるで初期キリスト教みたいな差別的な思想を感じることよ?
私、フェミニストじゃありませんけど、なんかムッとしちゃいます。虫が好かんわ、ザラストロ教団。
《魔笛》を敬遠しちゃう原因にはこれもあるかも。
音楽だけを聴いていれば、「フムフム、キレイね~」でいいんですけど(ドイツ語わかんないしね)、字幕やリブレットで歌詞の中身を確認しちゃうと、な~んか胸がもやもやします。
そういや《コジ・ファン・トゥッテ》でもそうだったっけ。
昔の作品だから仕方ないけど、今の時代に上演するなら少しは配慮しなくちゃいけないわけで、そいういう「もやもや」を解消するのも、演出家の力にかかってくるんだと思います。
マクヴィカー版ではどうなっているかと言いますと……
弁者に萌えろ デイヴィッド・マクヴィカー演出《魔笛》/Royal Opera House 1 [アレンの実演鑑賞記]
演出の仕事の本質とは、とにもかくにも「台本の解釈」であると、どこかのサイトで読みました。「歌」が主役のオペラの場合は、「台本+スコアの解釈」となるわけですね。あ、なるほどナ~と思った次第。
私、今までは、「演出の仕事はとにもかくにも“絵”を作り出すこと」だと(浅はかにも)思っていて、まぁそれはその通りなんでしょうけど、それが音楽と直結した作業とは全く気づいていなかったのであります。ゆえに、「“絵”なんて付け足しサ!」なんて軽く見ていた節があったかも。
センスの良い演出は、音楽と渾然一体となった素晴らしい“絵”を見せてくれるばかりか、時には音楽の持つ可能性を広げて新たな世界を創造してしまうこともあるのよね。
で、マクヴィカーの《魔笛》なんですけれども、これはねー、さりげない風を装っていますが、なかなかにウィットに富んだ寓話ではないかと。
《魔笛》のストーリーは「難解」とか言われますけど、要するに、プロットづくりが下手くそでメチャクチャなだけなと思うのね。現代人の合理的な頭でテーマを読み解こうとするのがそもそもの間違いなんじゃないでしょうか。
最初から「意味なんてねーよ」と思って見るほうがいい。カーチェイスとかラブシーンとか、ウケそうな要素を盛り込んだだけの、B級ハリウッド映画ですわ。
とはいえ、モーツァルトですからね。音楽のレベルはメチャクチャ高いわけで、せっかく上演するならそれなりに質の高いエンタテイメントに仕立てなければなりません。「ワケワカラン」なシーンでも、それなりに深い意味があるってしてくれたほうが、現代の我々にとっては楽しいのです。
そこが演出家の腕の見せドコロ。
長短の柱は乱立してるけど、屋根を支える大黒柱の見当たらない、そもそも「屋根だってあるかどうかわからない」ようなストーリーに、それなりのテーマ(柱の代わりに、天から屋根を吊るすロープのようなもの?)を与えてやるのが、《魔笛》における演出家のお仕事なんだと思います。
ケネス・ブラナーも映画《魔笛》でそれをやっていましたよね。彼のテーマ設定はとてもわかりやすいものでした。わかりやすすぎて、ビミョーにうんざりしたんですけど。(でも作品としては好きよ♪)
マクヴィカーも一つ、テーマ(コンセプトとは違いますよね?)を設定しているようです。
こちらも単純なものですが、示し方はブラナーよりも捻りがあります。
テーマを読み解く鍵はあちこちに散りばめられてあるんですが、最も重要なヒントを与えてくれるのが弁者のキャラクター設定である、と。
え? なに?
どーせ、
アレンの弁者が素敵なのー(人´∀`).☆.。.:*・゚
って、萌え語りしたいだけダロ!! って?
当たり前じゃないですか!
弁者の扱いを主眼に置きつつ、私なりに読み取った「テーマ」をまとめてみます。が、どこをどー探しても今回の弁者の画像がみつからないので(そりゃそうだね)、5年前の同演出のDVDから拝借することにします。キャストが若干違うのはご容赦を。
ジョナサン・ミラー演出《コジ・ファン・トゥッテ》/Royal Opera House [アレンの実演鑑賞記]
アレン追っかけ旅行から帰ってきて早2週間経ちました。ようやく落ち着いてきましたので、忘れないうちに《コジ・ファン・トゥッテ》の舞台について、感じたことをまとめておくことにしましょう。
と言っても、意識の99%はアレン(の挙動)にフォーカスしておりまして(*1)、残りの0.7%でミラーの演出を、0.3%でデイヴィスの指揮と他の歌手の歌唱をチェックしたという体たらくです。“絵”があると音楽なんて聴けなくなりますしネ。
おまけに、ワタシが観たのは7/17、7/20の回ですが、どちらがどうだったとか細かい記憶もゴッチャゴチャ。かなり大雑把な感想になってしまいますがご了承クダサイ。
(あらすじは、まぁウィキペディアのこちらなどを。すんまへん、面倒だもんで)
アレンの追っかけは置いといて、今回のROH《コジ》鑑賞のいちばんの目的はジョナサン・ミラーによる演出の妙技を堪能することでした。
以前の記事でちょっと触れたことがありましたけれども、ワタシは「現代読み替え演出」があまり好きではありません。大抵は舞台上で行われていることが歌詞やテーマにそぐわなくなり、シラケます。そもそも歌唱あってのオペラなのに、奇抜な演出に頼るとはケシカラン。歌手はテキトーに突っ立って歌ってりゃいいのヨ!! という、音楽偏重主義者的なオペラ愛好家なのです。
ん~基本的に、普段はCDしか聴いておりませんのでネ……(^^;
そんな頑固なワタシに、「いやいや、オペラの楽しみは音だけじゃないよ?」と教えてくださったのが、ブログを始めて知り合った同好の方々。そして、6月の新国立劇場《ファルスタッフ》なのです。
こちらの演出は「現代読み替え」ではありませんでしたが、スタイリッシュな感性はやはり現代的。視覚的に訴えるものでありながら音楽とも大変マッチしていましたし、古いオペラにありがちな矛盾したプロットを適度に補正して、現代人の合理的な感性に耐えうる作品に仕上げていたと思います。
人物の動きも細かいながら、歌唱を妨げるほどではありません(演じるほうは大変でしょうが)。なるほど、ジョナサン・ミラーという人は、オペラをよく理解して愛している演出家なのだなと、一気に好感度大・興味津々となったわけです。
で、ROHの《コジ》なんですけれども、まさに「良質の演出とパフォーマンスの勝利」といったところ。「《コジ》は地味でつまんない」と思っていたワタシを普通に笑わせ、それぞれのシーンの旋律における作曲者モーツァルトの「意図」をしっかり引き出しているんですね。もしくは、モーツァルトはそこまで考えていなかったかもしれませんが、200年後の私たちの笑いの感性を普通に受け入れることのできる懐の深さ、モーツァルトの職人芸が、ミラーの演出によって表出したということでしょう。
ダ・ポンテによるスカスカな台本も、ミラーの演出なら納得です。
舞台はナポリというだけで、フィオルディリージとドラベッラの姉妹がどういう家柄のお嬢さんなのかは全く不明。どこの馬の骨ともわからない怪しい男どもと結婚式まで挙げるというに、父親の姿はどこにも見えず。
代わりに自称哲学者のドン・アルフォンソがやけに馴れ馴れしく姉妹の家を出入りしていますが(食客なんですかねぇ?)、このジジイと姉妹の関係も不明。姉妹と婚約している青年、フェランドとグリエルモとなぜ親しくしているかも不明。
単に若い男女にスワッピングをさせたかっただけなのがミエミエな設定ですが、これぞ「シチュエーション・コメディ」の基本的な骨格なのです。
シット・コムは設定自体がドラマですから、ストーリーなんてハナクソみたいなモン。勝負の要はキャラクターです(`・ω・´) シャキーン
このキャラクター(特に若い男女4人)の描き分け/歌い分けが上手くいっている舞台や録音になかなかめぐり合えなかったのですが、ミラーの演出はその部分にもかなり意識的であった模様。自分が気になる部分をしっかり押さえてくれるアーティストは、それだけでファンになってしまいます。
簡素な舞台美術も、「これはドラマじゃねーのよ、シット・コムなのよ。キャラの魅力で勝負だヨ」というミラーの自信の表れでしょう(たぶん)。ワタシにとっては大変好感の持てるものでした。