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ニーベルングの指輪〈序夜〉《ラインの黄金》@METライブビューイング 2012/08/15 [オペラ録音・映像鑑賞記]

 METライブビューイング、ニーベルングの指輪〈序夜〉《ラインの黄金》アンコール上映を観てきました。

 アンチ・ワーグナーではありますが、以前に《ジークフリート》と《神々~》を新国で観て、わりと素直に楽しめたので、“リング”には好感を持っております。順番を間違って観ているので、当時はストーリーにイマイチついていけなかった部分も、今回第一作目の《ラインの黄金》を見て「なるほど」と納得することができました。

 本当なら一気に《ワルキューレ》まで観ておきたかったのですが、スケジュールが合わずに断念。

 暑い中、無理してでも観にいってよかったなぁと思うのは、ロベール・ルパージュによるスペクタクルな演出を大画面で堪能できたことです。

 ラインの乙女たちの泡を映す水面(画像↑)も、ローゲとヴォータンが歩を進める神秘的な地下の階段(画像↓)も、舞台に据え付けられた巨大な短冊状パネルを組み合わせて操作し、そこに映像や光を当てることで表現しているのです。宙吊りにされた歌手達はちょっと大変そうですが……壮大な音楽によく合っているし、視覚的にも大いに楽しめました。

 オペラにここまでの“ケレン”が必要なのかと考える方もいるかもしれませんが、バロック時代のオペラの演出など、当時の最先端の技術を駆使し、とんでもなくド派手な仕掛けで観客を喜ばせていたといいますから、オペラの娯楽としての方向性はこれで正統なんじゃないかと思います。

 フル・オーケストラで大仰な音楽を奏で、大柄な歌手たちが大声で歌いまくる舞台芸術なんですから、見た目もカッコつけずに派手にやるがよろし。今年3月の新国《さまよえるオランダ人》でデッカい船の舳先が登場した時なんかも、そう思いましたものね。

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真夏の夜のオペラ ガラコンサート8/8 @アミューたちかわ [コンサート/リサイタル]

tatikawagarakon.jpg 行ってきましたので、備忘録。

 目当ては、おなじみのテノールの望月哲也さんと、メゾ・ソプラノの清水華澄さん。お二人はもとより、他の出演者の方々もみなさんとても良かったのですが、今回特に心に残っているのは、ピアノの河原忠之さんです。

 ピアノ一本でオペラのオケ伴の醍醐味を再現してしまわれる河原さん。(これ、ホントに難しいんですよ!)以前にも望月氏のリサイタルでも体験していて(他にもあったのかもしれませんが)、その時も「上手だなぁ」「素晴らしいなぁ」と思ったものですが、今回は特にそれを意識させられました。

 最も心に残っているのは、《ドン・カルロ》の“友情の二重唱” の伴奏。中盤、ドン・カルロが教会にやって来た父王とエリザベッタを見て身を震わせるところ。

 このシーンはもう何度も、何種類もの録音や映像で聴き慣れていて、まぁ特に注目(耳)したこともないんですが、今日の河原さんの伴奏を聴いていて、「あっ」と思った。

 たった今、カルロとロドリーゴの目の前を、フィリッポ2世とその妃が通り過ぎて行ったんだ……!

 はっきりとその光景が“見えた” んですね。

 正直、今まで聴いたオーケストラ伴奏で、そこまでの臨場感を味わったことはありません。

 たぶん「録音だから」というのもあるでしょう。どんな名演でも「録音」では音楽の立体感は多少損なわれると思いますし。
 また、映像鑑賞の場合は、視覚に頼るところも大きいですから、純粋に演奏のみからその情景を汲み取ろうなんて、あまりしていないと思いますし。

 何の飾りもないシンプルなステージにグランドピアノが1台きり。歌う望月氏も、バリトンの森口賢二氏も(お二人とも演技達者でいらっしゃいますが)、普通のタキシード姿です。

 視覚的にも音楽的にもとてもシンプルなパフォーマンス。しかし、オーケストラ伴奏付きの本格的なオペラ上演に匹敵する――むしろ、それを凌ぐほどの――説得力を感じられたのは、名人河原さんの力だと思いました。

 もちろん、歌もよかったですよ。

 個人的には、中井亮一さんの《セビリアの理髪師》の大アリアが聴けたのがよかったし、《イル・トロヴァトーレ》の三重唱、“静かな夜だ!” は興奮しました。

 私のお気に入りの望月哲也さんの、ドン・カルロもよかったです。やはりこの方は、姿といい歌唱といい、存在感がありますね。そしてヴェルディもちゃんとハマるんだ!ということがわかって満足です。

 清水華澄さんの声もあいかわらず素晴らしい。日中共同制作、コンサート形式の新国《アイーダ》ではアムネリスでしたね。ぜひ聴きに行きたかったのですが仕事で都合がつかず、本当に残念でした。

 その他、《カルメン》を除けばすべてイタリアオペラからの選曲…というのが、そもそも私好みで満足しました。

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第一部

《椿姫》より“乾杯の歌” -- 全員
《オテロ》より“イヤーゴの信条” -- 森口賢二
《セビリアの理髪師》より
 “本当に私なの?” -- 高橋薫子/牧野正人
 “今の歌声は” -- 高橋薫子
 “ああなんたる衝撃~静かに静かに” -- 高橋薫子/中井亮一/牧野正人
 “もう逆らうのはやめよ” -- 中井亮一
《カルメン》より“あんたね? 俺だ!” -- 清水華澄/村上敏明

第ニ部

《ドン・カルロ》より“二人の胸に友情を” -- 望月哲也/森口賢二
《ボエーム》より“冷たい手” -- 村上敏明
《アドリアーナ・ルクヴルール》より
 “私は芸術の僕” -- 砂川涼子
 “優しい母の面影を” -- 望月哲也
 “モノローグが始まる” -- 牧野正人
 “苦い喜び、甘い苦しみ” -- 清水華澄
《トロヴァトーレ》より“静かな夜だ” -- 砂川涼子/村上敏明/森口賢二

アンコール:“オー・ソレ・ミオ”

ピアノ伴奏:河原忠之

夢とロマンの「清らかな思い出は遠い彼方に」/19人のオテロ [オペラ録音・映像鑑賞記]

francescotamagnoasotello.jpg 19世紀生まれのアンティーク歌手たちによる《オテロ》、名場面集

 初代オテロのタマちゃんことフランチェスコ・タマーニョは老力士ながらけっこう頑張っているのでして、このCDでは登場の第一声「喜べ!」と、この「清らかな思い出は…」、そして「オテロの死」、それぞれの取組に参戦しているのです。

 惜しむらくは2幕の二重唱、「大理石のような大空にかけて誓う」の録音が無いこと……と思っていたら、ありました! 1903年のもので、なんと2007年にリリースされるまで存在を知られていなかったのだそうです。

104年後に日の目を見た録音。《オテロ》初演から数えると120年になりますね。これを「夢とロマン」と呼ばずして何と呼ぼう?

 イァーゴを歌うのは、兄弟のジョヴァンニ・タマーニョではないかと言われています。あんまり上手くないけどね…。

 右上の、オテロに扮したタマちゃんの画像をクリックすると、YouTubeの該当音源に飛びますので、ぜひぜひ聴いてみてください。

後悔唖然としますぜ(笑)

 で、かなり話が逸れましたが、今回取り上げるのは、2幕中盤のオテロの独白、「清らかな思い出は遠い彼方に」。イァーゴの毒が効きはじめ、デズデーモナに対する疑惑がじわじわと膨らんでくるシーンです。デズデーモナを信じたいが、既に疑念のほうが圧倒的な真実としてオテロの心に侵食してくる。
 勇壮な行進曲風の伴奏が付きますが、オテロ歌いの皆さんには大声だけではなく、内面の苦しみもうまく表現してほしいものです。

 そして私イチオシのレナート・ザネッリがぐっとアピールしてきたのもまさにここから。YouTubeにも上がっていますので、ぜひぜひ聴いてみてください。(こちらは普通に良い!です)

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ルッフォの自伝 “La mia parabola” ハイライト/後編 -- 世界制覇。そして放物線は下降する。 [オペラの話題]

《ドン・カルロ》ロドリーゴに扮したスチール写真を見上げる、最晩年のルッフォ。ruffo_rodorigo.jpg
 ティッタ・ルッフォの自伝、“La mia parabola”(『我が人生の放物線/我が盛衰』)、読了。後半のハイライトをまとめます。(⇒ハイライト前編はこちら

 まんまヴェリズモだった前編とは一変して、後半は大スターとしての華々しい活躍の自慢話に終始……と、思いきや。そこは “天然ヴェルディアン” のルッフォのこと。ご本人はいたって真面目ですが、行間から漏れ聞こえてくるズンチャッチャ。ハイテンションで波乱万丈なイタオペ人生は変わりません。

 どうもこの人はトラブルを招きやすい体質というか、自分から悲劇に飛び込んでいきがちな性格であるように見受けられます。そこが既にヴェルディなんですが、悲しみにどっぷり浸っている姿にこちらはついつい吹いてしまったりして(失礼ながら)、そんな“作風”もヴェルディそのもの。ルッフォという人の一筋縄ではいかないオモシロ魅力は、後半でもますます光っています。

 20世紀に入り、「自動車」や「電話」などの近代的なアイテムを利用しつつ、着々と世界制覇を果たしてゆくルッフォ。そういう“時代”だったということなのでしょうか、昨今とは比べ物にならないほどスケールの大きなスターへと大成していきます。
 カネと名声に貪欲で、北米デビュー時のエピソードはNYに上陸したゴジラとしか…(笑)

 そんな“モンスター・シンガー”ぶりを発揮したかと思えば、一次大戦が勃発すると、きらびやかなステージ衣装を脱ぎ捨てて戦場へ赴き、一介の兵卒として銃を担う。カネや名声だけではなく、要は生きること全てに貪欲な、一徹な男だったのではないでしょうか。
 それは女性の愛し方においても同じで、感動的なエピローグが一転、某所でちょっとした物議を醸した例のオチが、ルッフォの人生の全てを語っていると思います。

 共演者や親交を深めた人々の名前に、超有名人やヒストリカル音源でお馴染みの方々が含まれているのも興味深いところです。ルッフォの生き生きとした語り口によって、歴史というレリーフに刻まれた彼らの瞳に光が宿り、ゆっくりと首を私たちに向けるかのよう。彼らもまた生きて、我々のように泣いて笑って、その人生の一部がレコードの歌唱に凝縮されているのだと思うと、古い雑音まみれの音源がこれまでとは別の響きをもって胸に迫ってきますね。

 ところで。ちょっと気になるのは、こんなにも雄弁なルッフォの筆が1924年の中米ツアーの出来事を書いた時点で唐突に止まり、いきなり締めくくりのパラグラフに飛んで終わっていること。24年といえば演技はますます円熟味を増し、それこそla parabola(放物線)の頂点に立っていた時代です。

 その後の下降線の人生を振り返る気になれなかったのだとしても、あまりにも尻切れトンボでルッフォらしくありません。想像にすぎませんが、本来もう少し続いていた部分を、おそらくはルッフォ自身の手で削除したのではないかという気がするのです。

 その根拠の一つに、ルッフォの息子ルッフォ・ティッタ・ジュニア氏の手によるエピローグがあります。これは1937年の出版当初には無かった部分で、1977年に付け加えられたもの。

 それによると、1924年コロンビアのボゴタでの公演中にイタリアの社会主義者ジャコモ・マッテオッティ⇒wiki)暗殺の報せを受け、その事件をきっかけに急激に祖国のファシスト政権との対立を深めていったとあります。マッテオッティはルッフォの妹の夫だったということです。

 ルッフォは直接的な政治活動に関与したわけではありませんが、あからさまにファシストを敵視する言動で当局から目をつけられ、相当手ひどい弾圧を受けたようです。1924年以降のルッフォの歌手活動は、1934年に引退するまで、常にファシストとの闘いの中にありました。さらに1937年の自伝出版の直後、ローマで反ファシスト派として逮捕されたりもしています。

 自伝を著した当時はまだまだ弾圧の真っ只中であり、敵対勢力との闘争を無視できないキャリア後期の活動については、途中までは書いたんじゃないかと思いますが、最終的に削除することを選んだのではなかろうか。

 だとすれば、最終章に唐突に現れるこの一文、「これまでの人類の歴史が希望よりも恐怖にさらされているのであれば、未来にはいったい何が残されているのか」が、一本の長い針のように、すっと心に刺さってきます。

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ダーラム大学 アレン総長 [アレンの話題]

 ※7/19再掲。就任式の様子がYouTubeにアップされました。

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2012-05-27
 ダーラム大学のサイトより拝借した画像です。(Photo credit: Durham University)

allenatdurham.jpg

 第12代総長におなりあそばされたサー・トーマス・アレンのお姿であります。

 すごい。歌舞伎の衣装みたい。

 5月3日にはダーラム大の音楽学部でマスター・クラスを持ったとの事(⇒こちら)。

※7/19追記。就任式(6/26)の様子がYouTubeにアップされていましたので、遅まきながら当ブログでもご紹介します。



夢とロマンの「喜べ!」「既に夜も更けた」/19人のオテロ [オペラ録音・映像鑑賞記]

verdietamagno.jpg 19世紀生まれのアンティーク歌手たちによる《オテロ》、名場面集より。1枚目CD“オテロの巻”に移ります。

 第一弾は、登場の第一声「喜べ!」と、デズデーモナとのラブ・デュエット「既に夜も更けた」から。

 イァーゴの時は「声がデカいか小さいか」に加えて「どんな役づくりをしているのか」あたりに着目(耳)して聴きましたが、オテロはもっとカンタンです。

「アタマが良いか悪いか」

 アタマの良さそうなオテロの代表格は、プラシド・ドミンゴとか。こないだハマったラモン・ビナイとか。細やかな感情表現に長けていて、わりと簡単に騙されてしまうオテロの単純さも「無理もないことだったんだ!」と聴き手を説得するだけの力がある。

 対して、アタマの悪そうな代表格は、えっと、マリオ・デル・モナコとか? とにかく大声で、脳みそまで声帯でできている系。基本的に大根で(本人は演技しているつもりだから尚更イタい)、盛大に騒げば騒ぐほど「プ…」と聴き手の笑いを誘う。

 で、私は基本、アタマ悪い系のオテロが好きです。大声最重視のオペラ愛好家ですし、“黄金のトランペット”のデル・モナコは、オテロを歌うために生まれてきたテノールだと思うわけです。

 そして今回の聴き比べで最も楽しみにしていたのが、フランチェスコ・タマーニョ。右上の写真で、ヴェルディ大先生と嬉しそうに腕を組んでいるのがヤツでござんす。

 彼こそは1987年の初演時にオテロを歌った元祖であり、スカラ座の外まで声が響いたという伝説の大声歌手。
 ええ当然アタマ悪い系です。大声ですもん。
 その演技力の無さ、表現の乏しさにはさすがのヴェルディもびっくりで、付っきりで歌唱指導をしたとか。

 いろいろな逸話を知るにつけ、そして↑のお茶目なお写真を見るにつけ、タマーニョがカワイくてカワイくてたまらなくなってきました。そんな彼のオテロ名場面を、リストア済サウンドで聴けるのですから、私のテンションが上がらない筈ありません。

 更に、予想外のオマケとして、アタマ良い系なオテロ歌い、レナート・ザネッリ様との出会いもありました。「様」を付けたということは、惚れたのです、はい。

「テノールに惚れるなんて…!!」と、アタフタしてしまいましたが、実はザネッリ、バリトンからの転向組なの。「我ながら、ブレないわ~」と感心することひとしきりです(笑)

 タマーニョ以降、この手のタイプでは20世紀初頭の最高のオテロ歌いではなかろうかと、個人的には思っています。

 この「喜べ!」の感想を呟いていた時点では、まだ彼の魅力に気付いていなかったのですが、この後急速に感想のテンションが上がっていきます。今後はぜひ、このザネッリに注目していただきたい。

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映画《1900年》とジュゼッペ・ヴェルディ [オペラの話題]

1900年.jpg ベルナルド・ベルトルッチの《1900年》(原題:Novecento)は、学生時代に観て大衝撃を受けて以来、私にとっての「ベスト5」に常にランクインされている作品です。

 1976年に公開。かなり古い映画なのですが、今年の6月にようやくDVD化されました!!
 ということで、十数年ぶりに鑑賞しました。

 物語の主軸は、大地主の子として生まれたアルフレード・ベルリンギエリロバート・デ・ニーロ)と小作人の子オルモジェラール・ドバルデュー)の半生に置かれていますが、背景には20世紀前半のイタリア現代史――一次大戦、ファシズムの台頭、二次大戦終了まで――が壮大に描かれます。

 特に興味深いのは、19~20世紀初頭に発展した農業労働者による社会主義運動の様子です。

 舞台となっているのはイタリア北部のエミリア=ロマーニャ州。

 小作人を使った大規模農業経営が主流で、経営者側と労働組合との闘争が激しかったといいます。一次大戦後、特にこの地方でファシズム運動が激化し、社会主義に対する弾圧が強まったのも、農村部における組合の支配が強固だったからとの事。

 アルフレードとオルモは、1901年の夏の同じ日に生まれたということで親友として成長しますが(長じてからは、ふざけて“双子だ”と言うことも)、属する階級が違うために、やがて宿命的な対立関係に追い込まれます。

 そのような「カインとアベル」的な物語に加え、イタリアのポー平原の雄大な自然を背景に、まるで農村絵画のように美しい映像、ベルトルッチお得意のデカダンスやエログロ描写が満載で、上映時間316分という驚異的な長さにもかかわらず、飽きも疲れもせずにラストまで鑑賞することができました。

 ちょうどティッタ・ルッフォの自伝を読んでいるところなのですが、彼もまたこの時代のファシズムの暴力に抗って犠牲を強いられた人なので、ファシスト党員による社会主義者の農民虐殺シーンは大変胸に迫りました。

 一方、この《1900年》という映画は随所にオペラのモチーフ――有名なヴェルディのアリアなど――が織り込まれているため、「あ、これは!」と宝探しをする、そんな楽しみも大きかったです。

 ベルトルッチは、一大叙事詩的なこの映画を「オペラ的な作品」であると語っているようです。元記事がわからないので何をもって「オペラ的」と言っているのかはわからないのですが、この映画は「歴史」を描いたものではなく「美」と「ファンタジー」であるとベルトルッチ自身が語っていることにヒントがありそうです。

 そのファンタジー的側面を強調するのに、数々のオペラの断片を効果的に使っているというわけです。

 主軸のストーリーは、道化姿の男の「ジュゼッペ・ヴェルディが死んだ!」という叫びと、続いて流れる《リゴレット》の陰鬱な前奏曲から始まります。

 それ以外にも、ヴェルディや有名なイタリア・オペラのモチーフがあれこれ登場します。興味深いので、思いつく限り並べてみることにしました。

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ルッフォの自伝 “La mia parabola” ハイライト/前編 -- 生い立ち、デビューからハムレットまで [オペラの話題]

ruffo_titta.jpg ティッタ・ルッフォの自伝、“La mia parabola”(『我が人生の放物線/我が盛衰』)を熟読中です。

 ピサの貧しい鉄細工職人の次男として生まれ、ローマで育ち、ある日天啓のように歌に目覚めて舞台人を志し、苦労の末にデビューを果たして着々とスターダムへ上りつめてゆく。

 野心を抱いた一人の青年の姿が、19世紀から20世紀初頭のヨーロッパを背景にして、実に活き活きと描かれています。

 ルッフォはこの自伝を、引退後のある年のたった一夏で書き上げたのだそうです(出版は1937年)。

 満足に学校教育を受けることができなかったということですが、かなりの読書家で、独学で芸術への造詣を深めていったようです。とにかくその文才に脱帽。彼の自伝が、単なる著名人の自筆の記録としてではなく、「作品」として高い評価を得ているというのも頷けます。

 読んでいてとにかく驚かされるのは、特に幼少~少年時代の思い出話の部分に顕著に表れているのですが、文章を読むだけでまるで映画か何かのように、19世紀後半のイタリアの街の情景が目に浮かんでくることです。出会った人ひとりひとりの顔つき、服装も実に細かく覚えています。天才型のルッフォは、もしかしたら、映像記憶能力を持っていたのかもしれません。

 また、自身の声音を白、黒、ブルー、緑…と、色に例えて説明することもしばしばあることから、共感覚(色聴)保有者でもあったのではないかと想像します。

 そして、その巧みな筆致や並外れた感性に勝るとも劣らずに魅力的なのは、ルッフォ自身のキャラクター。

 正直、こんなにツッコミ甲斐のあるお方とは思いませんでした(笑)

 歌唱と写真から受ける印象では真面目くさった、ややネクラな人といった感じで、まぁ自伝を読んでみても基本的にそういう性格のようなのですが、そんな内面性とは裏腹に“いかにも”なイタリア人気質が行間から炸裂しており、読みながら何度となく吹いております。

 オンナとカネの話が大好きで、ステップアップするたびにギャラがいくら増えたかまで、細かく記憶しているところもご愛嬌です。

ruffomyparabola.jpg 原文はもちろんイタリア語ですが、“My Parabola”という翻訳版が出ており、バスカヴィル社の“Great Voices” シリーズの第1巻として収められています。なんとCD付き。知らずに購入したのですが、まだ入手していないルッフォの録音が多数収録されており、ラッキーでした!

 先週から読み始め、ようやくルッフォの「放物線」が頂点に向かって加速度的に上り始めたあたり――1907年のハムレット大当たり――まで進みました。 ここでいったんインターバルを入れて、メモ代わりにツイートしていた自伝のハイライトをまとめておきます。

 Twitterは文字数が限られているのと、私の悪ノリで、誇張した訳も少なくないことをあらかじめお断りしておきます。
 また、彼の人生、キャリアアップのターニングポイントに注目して抜粋しています。芸術論についてお知りになりたい方は、ネット検索をするとけっこうルッフォの語録が散らばっていますので、そちらがおススメ。

 尚、“百検索は一読にしかず” ということで、過去にまとめたルッフォの記事の誤りが多数発見されました。訂正と、必要に応じて加筆しておきましたので、ご興味のある方はどうぞ。↓↓↓↓

  ・ライオンの歌声(La Voce del Leone)-- ティッタ・ルッフォのハムレット 「乾杯の歌」
  ・もう少し、ルッフォのこと。-- キャリア初期~中期について

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夢とロマンの大相撲…じゃなくて「大理石のような大空にかけて誓う」/14人のイァーゴ [オペラ録音・映像鑑賞記]

maureltamagno.jpg 19世紀生まれのアンティーク歌手たちによる《オテロ》名場面集より。

「復讐の二重唱/大理石のような大空にかけて誓う」

 妻デズデーモナの浮気をほのめかされたオテロが、ついにブチ切れて復讐を誓い、内心ほくそ笑んでいるイァーゴが忠節を装って同調する、大迫力の二重唱です。

 なまめかしくも静かなイァーゴの語りから、突如ドッカーン!と爆発する金管とオテロの叫び。オテロ歌いのテノールの強靭な歌唱の聴かせドコロでありますが、イァーゴのパートにも注目(耳)したい。

 実は重唱になる前はバリトンが主旋律を歌うのでして、その後もストレートで単調なオテロの旋律に、派手に上下するイァーゴの旋律が蛇のようにまとわりついて、両者の関係を実に見事に描写しています。

 で、あるからして。
 ここはテノールとバリトンが死力を尽くして声の大相撲をとってくれなきゃいけないのっ(`・ω・´)シャキーン

 バリトンが聴こえなきゃ意味ないでしょ。
 で、バリトンに煽られたテノールは、ここでかき消されたらテノールの名折れとばかりに、更に大声を出してくれなきゃいけないのっ。でなきゃオモシロくないでしょ。

 ここはいっちょう伝説のオテロ力士、フランチェスコ・タマーニョ(画像右)とヴィクトール・モレル(画像左)…といきたいところだけど、残念ながら録音という“場所”では元祖たちの顔合わせはナシ。
 ひと世代後の東西の名横綱、エンリコ・カルーソーティッタ・ルッフォの取組に期待。

 仕切り直しで気合を入れるのテノールの掛け声、
「さんぐぇヽ(`Д´)ノ!!  さんぐぇヽ(`Д´)ノ!! さんぐぇヽ(`Д´)ノ!!」
にも注目(耳)しましょう。

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《ローエングリン》@新国立劇場 6/13 -- フォークト! フォークト! そして伝令 [オペラ実演レポ]

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《ローエングリン》の1文あらすじ。

無実の罪をきせられたエルザ姫は、突然現れた白鳥の騎士に「決して名前を問わぬ」ことを条件に窮地を救われ、愛し合うも、魔女に唆されて騎士の名前を尋ねてしまい、騎士の愛と庇護を失う話。

 とにかく目当てはクラウス・フロリアン・フォークトです。

 フォークト! フォークト!

 演奏の良し悪しや歌のテクニック云々より、歌手の「声」そのものに興味のある私にとって、フォークトさえ聴けるのなら、苦手な作曲家だろうがその中でも特に苦手な演目だろうが(たぶんそうだと思う)関係ない。

 苦手といいつつ、演奏を聴いていて鳥肌が立ったポイントは2つあって、1つ目は1幕への前奏曲。2つ目がフォークトの登場の第一声で、あれを聴いた瞬間に、オケも他の歌手も作品の好き嫌いも拘束時間5時間の恐怖も消えてなくなってしまいました。

 神懸りとでも言いましょうか。あの透明感、清らかさ、曲がることのない光のように、真っ直ぐに響く力強さ。これが人間であってよいものか。「天上の声」とはこのことだ。

 その清らかな美声の、なんと残酷であったこと……。

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