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《オテロ》@新国立劇場4/13 -- ババジャニアンのイァーゴにやられた [オペラ実演レポ]

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《オテロ》の1文あらすじ。

ヴェネツィア共和国の勇将オテロが、彼を憎む部下イァーゴの策略により妻デズデーモナの不貞を吹き込まれ、嫉妬に狂って無実の妻を絞め殺し、自らも命を絶つという、シェイクスピア原作の悲劇。

 新国での実演鑑賞を指折り数えて待っていたのは久しぶり!

 初日が終わった直後からツイッター上でも「これは名演!」との感想があちこちで見られ、とりわけポプラフスカヤの代わりにデズデーモナを歌ったマリア・ルイジア・ボルシの評判が良かったもので、ソワソワわくわく毎日を過ごしておりました。

 もちろん、オテロ役のヴァルテル・フラッカーロへの期待も大。

 こないだの新国《トロヴァトーレ》のマンリーコもこの人だったんですが、私は「健康上の理由で(笑)」この公演を見逃しておりますのでね。フラッカーロのヴェルディ、とりわけ大好きな《オテロ》ですから、そりゃもう気持ちが盛り上がります。

 そしてヴェルディ・バリトン愛好家を名乗る者としてはミカエル・ババジャニアンのイァーゴも気になるわけです。

 私にとってのイチバン! のイァーゴは、そりゃピーター・グロソップに決まっているんですが、大声だけが取り柄の大根歌唱であることは否めませんし、皆様にご指摘されるまでもなく「ちょっと違う…」と常日頃から感じてはおりますので(ええ、わかっちゃいるんですってば)。

 新国の特設ページで見る限りでは「あんまりお顔が大きくなさそう」で、個人的には期待薄かなと思いつつ、まぁでも《オテロ》の陰の主役なんだから、「グロ様」「グロ様」と言わずに心を無にして楽しもうと、初台へ降り立った次第。

 ところがところが。蓋を開けたら、このババジャニアンのイァーゴがとっても魅力的だったのです。
 心を無にしたのがよかったのかな。

 ヴェルディの《オテロ》は、大先生のお若い頃の作品と比較すればそりゃーもう音楽的にもドラマ的にも上出来、まさに最高傑作なんだけれども、本家本元のシェイクスピアの《オセロー》と比べてしまうとストーリーは単純、人物描写も大味で、やっぱり「おマヌケ」感があります。まぁ、比べちゃいけないんですけどね、本来。

 だから、グロソップがお風呂で気持ちよく歌ってるおじさんみたいなイァーゴをやっても、「ま、ヴェルディだしね」って一言で許せていた。

 でも今回のババジャニアンは、「ヴェルディであっても」イァーゴというキャラクターの複雑さが表現可能であることを示唆してくれたんです。

 簡単に言っちゃうと、グロ様の歌唱じゃその可能性は少ないよってことなんですけど(爆)(爆)(爆)(爆)
 い、いいんだよっ、声が好きなんだから、声が。
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sinkokuzaseki2.jpg 今日の座席からの眺め。4階4列右寄り。
 新国“通”の方ならお分かりかと思いますが、いちばん上の階のいちばん後ろの列なんです。

 実はこの辺りのブロックに座るのは初めて。舞台は遠いけど歌手が豆粒みたいに小さく見えるほどではないし(新国は狭いので)、隅っでなければ見切れもないし、お値段のワリにはお得な席なので、わりあいすぐに売り切れちゃうんですよね。「通の方々が座る席」という印象があります。

 いつもチケット取りにグズグズしていて、結果、不本意ながらお高めの席に座ることの多い私ですが(もちろん、あえて高い席を奮発することも♪)、前回のオランダ人の時と同様、オークションでチケットをゲットしたのです。もち廉価!

 今回はババジャニアンの舞台姿がとても素敵だったし、演奏もハイレベルでしたんで、まる一ヶ月昼メシ抜きでもっと近い席でもよかったかなと思いましたが。最後尾席で何がいいって、「身を乗り出しても後ろの人に怒られない」ってことですね(笑) ソコ、いちばん気に入りました。

 公演の感想に戻ります。

 オケの演奏はもう出だしからヴェルディキタ━━━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━━━!!系で。指揮のジャン・レイサム=ケーニックがピットに入ってきた時点で既に興奮マックスで心臓が苦しいくらいだったので(笑)、一気にヴェルディ・スイッチが入りました!

 コテコテというわけではないけれど、血液を沸騰させるようなエネルギーに満ちていたと思います。失速する箇所もなく、最後までハイテンションに突っ走りました。

 合唱も期待どおりの出来。新国ですので、これはもう言わずもがな、ですね。

 フラッカーロのオテロは、言ってしまえば「大声一辺倒」タイプなんですが、まずは力強さと迫力を出してナンボの役なので文句無しです。満足しました。

 そして、ボルシのデズデーモナ。表現力もさることながら、とにかく声が良かったです。混ざり物のない響きとでも言いましょうか。4幕で「アヴェ・マリア」を歌いますが、聖母マリアに祈りを捧げる彼女自身がマリアだ!と思わせられる清らかな声なのです(あ、ボルシのファーストネームもマリアだ)。

 罪が無いのです。彼女の声には。少女ではないので「純真無垢」とは言いませんが、本当にまっすぐにオテロだけを見つめている人の声なのですね。あんなに澄んだ清らかな声なのに「不貞だ」となじるオテロはなんて愚かな。本当にデズデーモナは無実で殺されたのだという説得力がありました。

 そして「柳の歌」の素晴らしさ。

 白状しますと私、これまで幾つかの録音や映像で「柳の歌」を聴いてきたけど(そんなに多くないですけど)、いまいちピンときたことがありませんでした。
 良い歌だなと思うけど、デズデーモナが自らの心情を吐露するのに何故バルバラという他人の歌っていた歌を借りなければならないのか。

 MetのDVDで観たレナータ・スコットのデズデーモナなどもリアリティがあって好きなんですが、この「柳の歌」の部分だけはちょっとちぐはぐな印象を受けたものです。

 ボルシの「柳の歌」は抑制がきいていて、歌唱そのものはさほどドラマティックではありません。が、それ故に、デズデーモナの「混じり気のない」悲しみが伝わってきたと思います。

 おそらく、ボルシの解釈では、デズデーモナはオテロの態度が豹変したことを受け入れられずにいたのではないか。何が起こったのか理解できず、今ここで「私は不幸だ」と認めたくないのです。だから、「可哀想なバルバラ」と言う。

 しかし、「可哀想なバルバラ」を想いながら柳の歌を歌っていくうちに、自身の悲しみと絶望をひしひしと感じ始める。風の音に怯え、最後に悲鳴をあげるかのごとくエミリアに別れを告げるのですね。たぶん、バルバラは死んでしまったのだと思います。デズデーモナはそれに思い当たり、自身の運命を悟ったのではないかと。

 こういう文学的な心情表現を――常日ごろ私がバカにし愛でているズンチャッチャ――あのヴェルディが音楽でやったというだけで感動しますが(笑)、まさに神懸り的なヴェルディのそれに気づかせてくれたのが、マリア・ルイジア・ボルシの清らかで悲しい歌唱でした。

 あのシーンが「柳の歌」でなければならない理由がやっとわかりました。

 最近ツイッターでお知り合いになった方が「これまで聴いた中で最高のデズデーモナ」と仰っていましたが、私も全面的に同意したいと思います(聴いている数は全然少ないですけど)。

 ボルシのデズデーモナと同じく、いえ、それ以上に役柄の理解を深めることができたのが、ミカエル・ババジャニアンのイァーゴです。

 グロソップの「気の好いオジさん」的なイァーゴは脇に置いておくとしても、日ごろヴィンテージ音源にお世話になっている影響で、ティト・ゴッビのいかにも邪悪なイァーゴあたりがこれまでの私のスタンダード。オペラだし、ましてやヴェルディだからそれでいいと思っていたんですが、まさか同じ楽曲で、こんなに演劇的な性格表現を聞かせられることとなろうとは。

 歌唱は、まぁ、今やってるトレアドール祭りみたいに他の音源と並べて聴けば、
「抑えが効いている中に世を拗ねた悪党らしさが見え隠れして好印象。だけどもうちょっと個性が欲しい。低音がやや弱いか」
なんて偉そうな感想を書くかもしれません。けれども、こうして舞台で演じている姿を見ながら聴くと、イァーゴという人間の内面のいやらしさが黒い煙のように立ち上ってくるのが感じられます。

 ババジャニアンのイァーゴは抑制が効いていてクールです。しかし、舞台であるヴェネツィアの水路に彼の心を例えるとしたら、一見静かな水面の下に滓のような悪意を潜ませている。

 イァーゴの「クレド」の歪んだ言葉がここまで切実に心に響いたのは初めて。あっけらかんと悪を肯定するのではなく、自嘲と葛藤が滲んでいます。イァーゴは残忍な神の申し子ではなく、善悪のはざまで揺れ動く弱い人間にすぎないのだということ。壁に泥で描いた十字架に水をぶちまける演出からもそれがうかがえます。

 対するフラッカーロのオテロは、大声歌唱が目立ってしまってそこまでの多面性は感じられませんでしたが、逆にそれが功を奏してイァーゴのキャラの複雑さを際立たせていたように思います。

 ババジャニアンの声はフラッカーロほど大声ではないのですが(もちろん迫力はあった!)、抑えられた彼の声が激情的なフラッカーロの声に絡むと、生身の人ではなく邪悪なスピリット(霊)がまとわりついているような雰囲気が醸しだされるのですね。

 それはババジャニアンの立ち姿にも言えます。猫背で、卑屈に背骨を歪めて、常に斜め後ろから横目でオテロを凝視する。その姿に私はマジで惚れてしまったんだけれども――全身黒ずくめで、不自然に首を曲げた姿勢でオテロに寄り添い、妖言をささやくイァーゴは、まるでオテロの影のようです。

 オテロ自身が元々抱いていたデズデーモナに対する気後れのような感情――年齢差や肌の色の違い、「彼女に愛されるという幸せは長続きしないのでは」という恐怖が生み出した幻影がイァーゴという存在なのかもしれない。
 2幕幕切れの二重唱「神かけて誓う」を恍惚然として聴きながら、ふとそんなことを思ったりもしました。

 新国立劇場に足を運ぶようになったのも最近のことですし、実演鑑賞の経験もあまり無いのですが、この《オテロ》は名演であったと思う。
 大好きな演目を文句なしの演奏で聴くという幸運は、この先の人生でどれくらいあるのでしょうか。

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【オテロ】ヴァルテル・フラッカーロ
【デズデーモナ】マリア・ルイジア・ボルシ
【イアーゴ】ミカエル・ババジャニアン

【ロドヴィーコ】松位 浩
【カッシオ】小原啓楼
【エミーリア】清水華澄
【ロデリーゴ】内山信吾
【モンターノ】久保田真澄
【伝 令】タン・ジュンボ

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
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関連記事リンク
グロソップ×ウ゛ィッカーズの『オテロ』/ヴェルディ :1
グロソップ×ウ゛ィッカーズの『オテロ』/ヴェルディ:2
(グロソップのファンになりたての頃に書いた懐かしの記事です。今読み返すと“甘ちゃん”だなぁ。今回のオテロは、当時の感想をコロっと覆してしまったわけで・・)

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アルチーナ

地震が無くて良かったですね!(笑)
私も4階席だったのですが、反対側でした・・
なので声はすれど、姿が見えず・・・という部分が多く、ちょっとそこは残念でしたが、本当に良い公演でしたね。

確かに舞台に立つ人は顔が大きいほうが良いですよね~~・・なるほど、
そういう所もチェックされているのですね♪

それから、水の下の澱、というのも納得です。
そういえば、水面が波立った時がありましたけれど、
それも心性とリンクしていたのかしら?と、フト思いました。
by アルチーナ (2012-04-14 12:19) 

straycat

おほほ、しまさんのエキサイトぶりが伝わってくるレポでしたわ。

ボルシはおっしゃるように、死を最後まで意識しない演技がよかったですよね。普通は演者も観客もデスデーモナが死ぬことを知っているから、どうしても演技プランがそこから遡ったものになる。観ているこちらもその前提でデスデーモナを観てしまうし。だからどうしても「私、可哀そうでしょ?」ってことになるんですが、彼女の場合は本当に戸惑ってる感じが伝わってきて、夫を疑っていないという事がよく伝わってきました。だから私達もそのまっすぐさに打たれるし、最後の悲劇がより一層際ったものになる。私、殺害の場面は手に汗を握りましたもの。

ヴェルディの作曲術にも心打たれました。
こんな途方のないものをよくも・・という感じ。
ババジャニアンのイアーゴも、しまさん上手い事おっしゃいますね、あれはオテロの劣等感の生んだ影ですかね。
by straycat (2012-04-14 23:21) 

Sardanapalus

新国の公演には全く縁のない私にとっては、こういったレポートを読むのがとても楽しみなのですが、今回はどなたも◎の評価ですね。デズデモーナが素敵だと、「オテロ」の魅力が倍増しますものね(シェイクスピアでもヴェルディでも)。フラッカーロは、あの大声歌唱と大根演技が苦手なのですが、オテロなら許せそうです(^^)

>ババジャニアンは、「ヴェルディであっても」イァーゴというキャラクターの複雑さが表現可能であることを示唆
これってかなり難しいと思うので、そんなイアーゴを体験された皆さんがとても羨ましいです。きっと私が好きなタイプの歌手なので、今後は名前を覚えておこうと思います。
by Sardanapalus (2012-04-14 23:37) 

しま

■アルチーナさん
なにげに3/14の地震はトラウマになっていたんでしょうねぇ(笑) 4階席は高いから、ここで揺れたらどうなるんだとか考えちゃいました。

>声はすれど、姿が見えず
オケピの左サイドに、桟橋を模した通路がありましたね。ちょっと歌舞伎の花道みたいな感覚で。
確かにあそこで何かされると、左側の席からは完全に見切れてしまいますね。

>顔が大きい
>そういう所もチェック
・・私の「男性の好み」の問題です・・。すみません・・。

>水面が波立った時
あ、ありましたね~。
その瞬間を見ていなかったんで、何だろうと思っていたんです。
おっしゃるとおり、心性とリンクしていたのかもしれない。
けっこうおもしろい演出だったので、もう一回見て細部を確認したいです。
by しま (2012-04-15 00:44) 

しま

■straycatさん
>死を最後まで意識しない演技
「死にたくない!」って叫びますからねぇ。
柳の歌やアヴェ・マリアをドラマチックに立派に歌ってしまうと、死に際もちぐはぐになってしまうんですよね。
覚悟してたはずなのに、今更っ!?ってツッコミたくなっちゃう。
ボルシの解釈で初めてここが繋がりました。
ということは、ヴェルディはちゃんと意図して作曲してたってことになりますよね。

>こんな途方のないものをよくも・・
アイーダも大変完成度が高く、傑作なのですが、オテロとファルスタッフは一連のヴェルディの「進化」の道筋から大きく逸れていますよね。
だから私は、この2作を他の「後期作品」と切り離して、「ヴェルディ病の末期」と呼んだりしています(笑)

>オテロの劣等感の生んだ影
ええ、遠くからはそんなふうに見えたんです。
表情とか目の動きとか、細かい演技までは確認できなかったんですが、ババジャニアンの役作りはあんな離れた場所でも象徴的にちゃんと伝わっていた…ということですかね。
いやはや、まったく素晴らしいです。
by しま (2012-04-15 01:07) 

しま

■サルダナさん
この界隈をはじめ、ネットのあちこちで見られる評価も、いずれも高いみたいですね。よかったです。

>フラッカーロは、オテロなら許せそうです(^^)

オテロは大声大根で良いのではないかと。その分イァーゴが頑張ればいいじゃんと、今回の経験で思いました。
デル・モナコもティト・ゴッビの素晴らしいイァーゴによって光りましたしね。
オテロを芸達者な歌手が歌う場合は、ババジャニアンみたいなのだと個性がぶつかりすぎて、うるさいかもしれません。所詮「オペラ」でありますので。

>きっと私が好きなタイプの歌手
サルダナさんは演劇的アプローチの巧みな歌い手がお好みですよね。たぶんババジャニアンもお眼鏡にかなうのではないかと思います。
歌唱だけを取り上げるのなら、今ひとつって感はありますけど・・。
by しま (2012-04-15 01:35) 

Yuhko

はじめまして、
近くに座っていました。
ババジャニアンの猫背に、気がつきませんでした。
道理で、楽屋口で、観た時に思ったほど、フラッカーロと、背の高さに、差が無かった理由が、分かりました。
コの字の階段(?)の下から絶えず(暗い時は見えなかったけど)水が、出ていました。
L1席にいた友人が、波を起こしている場面と、真ん中の部分を動かしている所を見ていたらしいです。(黒子が、)
ババジャニアン氏夫人に聞いたところ、現在の国籍は、ドイツだそうです。

by Yuhko (2012-04-15 13:23) 

しま

■Yuhkoさん
はじめまして。コメントをありがとうございます。

>近くに座っていました
では、目ぐらい合ったかもしれませんね!(笑)

会談から水が出ていたとは、全くわかりませんでした。
視力が悪くて、暗くなるとあの字幕も読めないくらいなんです(^^;

水面に波がたった瞬間は見逃していたんですが、やはり何かの象徴だったんでしょうね。
今回は興奮しすぎてあまり演出にフォーカスできなかったので、次の機会でもあればじっくり舞台の効果も観察してみたいです。
by しま (2012-04-15 23:29) 

Basilio

みなさんフラッカーロ高評価ですね(^^;

私は去年の酷過ぎるマンリーコを聴いて、フラッカーロは2度と聴かないと心に決めるぐらいのアレルギーなんですが…オテロなら似合うんですかね、まあ声はでかいし笑。
by Basilio (2012-04-16 12:20) 

しま

■Basilioさん
いや、フラッカーロについては、皆さんもたぶん全然期待してなかったんですよ(あ、言ってしまった…)。
期待度が低かったわりにはマシな歌唱だったってとこじゃなかろうか。
Basilioさんと似た感想を仰ってる方も少なくないですよ。

私にしても、フラッカーロのあの大声が好きなのです。
オテロの歌唱ではありませんやね。
でもハイテンションだったから私は満足w(結局それw)
by しま (2012-04-16 15:07) 

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